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連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第160回)

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「神戸大学と神戸映画資料館」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


       賀川豊彦の著作―序文など

      わが蔵書棚より刊行順に並べる
 
            第160回



     『賀川豊彦全集13』(第23回配本「月報23」)


  
 『賀川豊彦全集』の第23回配本は、昭和39年7月10日に「哲学・経済・社会学」として分類されている第13巻が刊行されました。

 今回の「月報23」には、「最後の無理」と題して松前重義氏(東海大学学長)、「誤解に苦しむ」と題して賀川益慶氏(賀川商店社長)などが寄稿しています。

 いずれも、貴重な文章ですので、前回と同じく月報の前記二つを取り出して置きます。




           『賀川豊彦全集13』第23回配本「月報23」

                   最後の無理

                   松前 重義


 賀川先生にお目にかかったのは終戦後間もない頃であったと記憶する。何かの座談会で先生より物質の構造に関して特に原子物理学についてのお話を承って、私は先生の原子物理学に関する否自然科学についての造詣の深いことに驚いたことがあった。先生は『わしは戦時中わしの発明した整流器の特許による電源社からの特許料でめしを食っていた』との言葉を聞いて先生は自然科学者であり技術者でもあることを知っていよいよ先生の偉大さを知った。その後先生が『希望的宇宙観』なる著書で自然科学と宗教との一致の中に大宇宙の生成発展とその完成の希望を托した字宙の見方をものされたのもむべなる哉であった。

 先生は社会運動家として社会党の顧問であった。前回の総選挙の時私の願いを容れられて私の応援に遠路わざわざ熊本までお出で下さった。その時の先生の体は最早少々不自由に見受けられ本当に相済まぬと思い心から感鮒したのであった。先生は私にいわれた。『私は杉山元治郎君と君と二人だけ応援することにしている』私は先生のご厚意にただ感謝するばかりだった。

 先生は熊本市公会堂の私の演説会で私か科学技術者であるためか、次の様な面白い先生らしい講演をされた。このことは今だに忘れることは出来ない。

 『わしは何時も考えている。関門海峡と豊後水道と鳴門海峡と淡路海峡に網をはって瀬戸内海を鯨や鮪の養魚場にするくらいのことを考えねば日本民族は生きてゆけない。さしむき熊本では有明海の入口に網を張って鯨や鮪の養魚をやったらどうだろう。これらはすべて自然科学の力によらなければならない。そして不可能のことではない。今日のような目先のことばかり追っかけ廻すような近視眼的な政治では日本は救われない』

 と絶叫されて科学者としでの私を推薦されたのであった。

 この時の先生の一時間半にわたる演説は初めより最後まで科学溝演であっだ。この時、私は科学者としての先生を再び深く認識したのであった。

 先生はかつて私に『わしは国民の科学知織普及のため「原子双六」をつくっている。これで子供のうちから遊びながら知らず知らず宇宙の構造や自然科学に親しむようになる、いつか君にお目にかけよう』

 といわれたことがあった。この原子双六の行方は如何になったことだろう。

 私はお礼のためにお宅にお伺いしたとき奥様は『今新潟から長野に伝道旅行に出ている。身体は不自由でも約束を果すためには無理から無理を押し通す人ですから』といっておられた。どうもこの無理は私の選挙とともに最後の無理ではなかったかと本当に申し訳なく思っている。

 先生の病重しと伝えられた時には私共は国会を中心として杉山元治郎先生の提唱で先生をノーベル平和賞の受賞者として推薦の運動中であった。そして著しく有望を伝えられた。先生の生命にしてあと数ケ月を許されたならば恐らくこのことは実現したであろうと私は信ずる。然し先生はこんな世俗の名誉等には目もくれずして静かに召天された。偉大な生涯であった。

 先生の思想はキリスト教の信仰に根ざすとともに完全に二十世紀の科学をマスターしておられた。十九世紀までのニニュートンカ学による因果律を基調とする所謂当時の科学的歴史観即ち唯物史観に対して先生はマックス・プランクの量子力学、アイんシュタインの相対性原理、ハイゼンペルグの不確定性の定律を始め字宙線、原子物理学に到るまでを完全にわがものとして、この二十世紀の科学の証明する神秘的宇宙観の下に科学と信仰との一致に到達せられたと私は思う、

 先生は愛の人であった。先生は正義のための戦の人であった。そして先生は科学者でもあった。勿諭、大伝道者であった。われわれは先生を世界に誇る。そして限りなき感謝を神に捧げる。われわれは今先生の屍を乗り越えて、先生の跡を前進しなければならない。
                                       〔東海大学学長〕

  


                誤解に苦しむ

                賀川 益慶


 私たちの古里は阿波吉野川のほとりだった。美しい 清い流れがサラサラ流れていた印象が焼きついている。今では徳島県板野郡大麻町堀江東馬詰村と変っている。

 明治三十三年のことだったが、兄豊彦は徳島中学へ入学した。ちょうどその時、後に堀江小学校の校長になった石川先生が、兄の同窓で師範学校に入学した。当時は教育に関心がなかったのと、子供を上級学校にやる家はよほどの金持ちだった。村でも二人のほかは、小学校から上級学校へ進学する者はなかった。賀川家は村では、分限者といわれていた。

 父のなき後の神戸の賀川回漕店は、長兄端一が二十三、四歳の若さで経営していたが、持船の遭難があったりして、大きな損害をうけ、挽回できぬまま家運は傾いて没落した。

 私は長兄の家で暮していたが、六歳になり、小学校へ入らねばならないので、神戸より徳島の実家にやられた。

 そのころのこと堀江高等小学校四年生の兄豊彦が、学校の小使の娘を洋傘で殴ったという事件があり、それか原因でその娘が肋膜となった。小使は娘をひどい目にあわせたというので『賠償せよ』と強談判に及んで騒ぎは大きくなった。賀川家は金持ちだからと、背後でそそのかす者があったのだろう。その時のことは子供心に、私は今でもよくおぼえている。

 兄はそんな乱暴はしたおぼえがないのに、とんだ誤解をうけたのに心を痛め、非常に苦しんでいた。兄がクリスチャンになった原因はこのことと、『めかけの子だ』とかげぐちをきかれることを苦にしていたので、自分が大きくなったら、妾をなくそうという夢を持っていたらしい。この二つの原因からではないかと思う。

 私が十歳になった、ある日のこと、兄は徳鳥のローガン先生のお宅へ私を連れて行うだ。私にすれば何のために私を連れて行ったのかわからなかった。その時はじめてバンを食べた。食事の前に祈りがあったので、ヤソ敦の先生であると知った。

 当時兄は徳島の伯父、森六兵衛のところで世話になっていたが、伯父は日ごろロぐせのように『ヤソは家に入れぬぞ』といって、兄にいやみをいうていた。

 その後、数年すぎて、私は大臣の親類の肥料店へ奉公に出た。ある日店先きに見なれない、洋服を着た若いハイカラな人が立っていた。そのころ軍人でも将校のきる真赤な裏地の外套を着て、さっそうたる姿は、ひときわ目をそばだてた。『ヤソの兄さんが来はりましたぜ』という声に出て見ると、中学生姿のなつかしい兄だった。

 ずっと後になり、明治学院を卒業して、神戸の貧民窟で伝道し、アメリカに留学することになり、私のところに来て『「貧民心理の研究」の原稿が銀座の讐醒社へ五百円で売れる予定だから、それまで旅費に三百円貸してくれ』といった。当時五百円あれば二等船客としてアメリカまで行けるのである、二十歳の私には三百円は大金であったが、すぐ用立て、兄はアメリカに向った。
                                   〔株式会社賀川商店社長〕
   





                  日米開戦を予言
                   
                    園部不二夫


 一九四一(昭和十六)年七月の最後の日曜日、平和使節で波米した賀川先生は、サンフランシスコ合同教会で、お別れの説教をして下さった。礼拝後、中華料理店で午餐会がひらかれ、僕らも招待されたが、その席上先生は驚くべき事実を語ってくれた。

 「実はいままで誰にも話さなかったが、諸君は牧師さんなのでお話ししておこう。今度の渡米の目的には一つの大きな使命があったのです。近衛公からひそかに依頼されてルーズベルトに日本と支那との間の調停をしてもらうために来たのです。いま日本は日支事変で勝った、勝ったと景気の良いことをいっているが、実は四年間も戦っていて収拾がつかないで弱っている。終止符を打つためには調停者に頼まなければならない。日露戦争のときには前のテオドール・ルーズベルトが調停役を引き受けてくれたが、今度蒋介石と近衛さんとの間に立つものはフランクリン・ルーズペルト以外にない。そこで近衛さんは私にルーズベルトを説き落してくれというのです。こうして私は、おみやげに大続領の立派な肖像画を持参しでアメリカにきました。最初シャトルに上陸しようと思ったらトラホームのため検疫が通らない。仕方なく大統領に電報打ったら、早速カガワを上げてやれという。ただし伝染してはいかんので、ほかの人と梶手まかりならぬということでしたが……。とにかく上陸がゆるされ、ルーズベルトと会って彼をとうとう説ぎふせたのです。そして近衛さんと洋上会談するなり、何なりして日支問の調停役を引き受けてもらうようにチャンと取りきめてきたのです。ところが、どうですか、一ヶ月前の六月二十二日には独ソ戦が開始された。つい一週間前の七月二十三日には突然日本軍が仏印に進駐し出したではないですか。ワシントンぢやカンカソですよ。わたしの計画は全く水泡に帰してしまいました。ルーズベルトから“ガガワ、これではどうにもならない。近衛さんとの会談の仲は取り消してくれ″というて来たのです」

 先生はいかにも残念そうにそういわれた。一座のものはびっくりしてしまった。僕はこの話を聞いた時ほど“貿川豊彦”の偉大さに打たれたことはなかった。日本の外交官、政治家百人よりも、一人の宗教家カガワをルーズベルトは信用していたのであった。日本軍部の無思慮な攻撃のため、近衛・ルーズベルト会談は失敗に帰した。しかし大統領をここまで動かしたのはカガワの人格であった。

 先生はこうなったら日米戦争が遠からず起るのではないかとおそれ、牧師たちに極力米国市民と融和を計るように助言した。この時アメリカは日本の資産凍結を宣して報いていたからである。

 中華料理店を出たあと、先生は僕をつかまえて、しんみりいわれた。

 「ミスター・ソノベ! ヘたをしたら戦争おこるよ!あぶないネ、キミぐずぐずしていると帰れなくなるよ、この船のがしたら船、来ないよ!」

 先生は二、三度繰りかえして同じことをいわれた。

 ぼくは実際のところ、その時は事態がそこまで切迫しているとは思っていなかった。しかし先生が“戦争はおこるよ”“この船のがしたら船、来ないよ!”と繰りかえしいわれたことを忘れることができなかった。

 ちょうどロサンゼルスでは、カガワ・サソデーが守られるはずだったが、先生はこれを放棄して帰国されようとした。それは近衛公への重大使命報告があったからであった。

 一方、賀川先生は近衛・ルーズベルト会談を開いて戦争を防止するにしかずと考へスタソレー・ジョーンズを通じ、再度交渉にあたっていた。ジョーンズからは、

 「ここ一週間があぶない、ワシントンでも徹夜の祈祷会を開くから、東京でも開くように」と打電して来た。先生は同志たちと連夜祈祷会を開き、一週間つづけた。ローソクの灯が消された十二月八日早朝、ラジオは軍艦マーチとともに日本軍の真珠湾攻撃の報を高らかに報じた。

 先生の。戦争の予言はエレミヤの予言の如く悲しくも実現したのだった。
                                     〔明治学院大学教授〕









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