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連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第169回)

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「昨日午後のぶらり散歩で」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


         賀川豊彦の著作―序文など

        わが蔵書棚より刊行順に並べる
 
              第169回


       A・C・クヌーテン著:村島帰之・小川清澄共訳

       『解放の預言者―日本社会史より見た賀川豊彦の研究』

  
 標記の翻訳書は、昭和24年2月に警醒社書店より出版されました。本書の成り立ちと翻訳の経緯については、巻頭にある著者の「序文」と巻末の「訳者の言葉」を、以下に取り出しておきますので、一読いただけばと思います。

 この翻訳は、賀川の還暦祝いと献身40年の記念も兼ねてすすめられたようです。




             A・C・クヌーテン著『解放の預言者』

                    序 文


 日本の社會的・経済的・宗教的生活の趨勢に開する最初の研究に於いて私の意図した所は、『日本國民の社會的・倫理的構造の諸要素を分析するため、賀川豊彦の生涯、事業及び彼の基督教哲學を検討する』にあった。この事は表明せられた諸思想を実証せんとする多くの資料のため可なり尨大なものとなった著作之の中になし遂げられたのであった。

 本書に於いては、日本の社會的・倫理的構造の発達を示す多くの歴史上の詳細な点は省略されている。それは、日本人の生活に於いて躍動しつつも屡々熾裂に相反撃してゐる諸潮流の記録をモツト読み易いものとするためであった。これらの潮流は、日本の歴史の中に、昔も今も変ることなく激しいものである。

 翻訳者村島帰之、小川清澄両氏は、その見事な忠実な翻訳によって、本研究の焦点たる賀川豊彦の人格を浮き出させられたが、その結果、その背景となる學的資料を制限されたのは已むを得ざる所であった。

 この短い序文に於いて、封建時代を通じて日本を形成し、明治維新と共に始った近代へと導いて来た日本の社會的・倫理的影響たる五大潮流に就いて、注意を喚起して置くことは適当なことと思ぽれる。これ等は、謂はば、日本に於ける賀川豊彦と幾百萬の人々の生活の中に演出されて来た劇の背景をなすものである。五大潮流と言うのは次の通りである。

 1 第一は、日本人生活に於ける自然的な固有な力としての神道の宗教的・倫理的基礎であって、この基盤の上に、またその周通に、他の多くの勢力が貢献したのであった。氏族組織に於ける単純な日本人の家庭生活、即ち『氏の神』を持った『氏』や『氏神』の発達は、凡ゆる忠誠と責任を件ふ近代の家族國家を齎したのである。
     
 2 登展しゆく日本の生活の初期に入って来た儒教の倫理哲學は、祖先崇拝と社會機構とに影響する所があり、典型的な忠誠の標本を作り出したが、國民の大多数たる農民、労働者、主婦、青年たちに関する所ぱ余りなかった。

 3 これ等の倫理哲學に、佛教はその宗教的儀式主義と華飾と共に、或る種の形而上的概念を附け加えたが、民衆の日毎の生存競争に於ける状態の改善に資ずる所は殆どなかった。

 4 イヱス會修道士達によって基督教傅道が日本に開始されてから、基督数的愛が強調されると共に、社會観念に對する攻撃が始めてなされたのであるが、これは宗教的政治的勢力として、日本人の生活より追放せられてしまった。追放することにより、之を全く抹殺してしまったと思はれたが、この時代に説かれ生かされた神の言は、日本に於いて決して空しくならす、または影響なくはなかった証跡が現存するのである。

 5 第五の大なる潮流、即ち発展しゆく社會的倫理的運動の中に根拠を持つ所の騎士道は、上述の諸潮流の一つ若くはその幾つかのものに属するものと見倣すが至当かも知れない。然し、それが二つの流れ、即ち一つは侍の騎士道即ち武士道、他は侠客の騎士道即ち侠客道(軍事的騎士道と社會的騎士道)として流れて来たのであるから、これは独立した一個の渦巻く流れと見倣すべきである。明治維新や近代日本の活劇が表面化して来るのはこれ等の二つの騎士道の葛藤に於いてであった。

 暫くして、荒涼たる戦の中から生れ出づる近代日本は、新しい未来に直面するのであるが、そこにはこれ等凡ての潮流が強力熾裂に相互に作用し合って居り、更に現下の社會生活、経済行為、宗教信仰の領域に於ける新しい潮流が加っている。そして猛り狂ふこれ等の諸勢力は、日本の凡ての男、女、小児童の生活と性格に影響を輿えているのである。

 個々人に對する解決策は、細密な点に於いては夫々異るであろう。然し結局、基本的問題は、日本人各自が一個の人格となるか、或は機械の一つの歯車となるか、神の指導の下に霊的の力としての完成を追求する尊厳なる人格となるか、若くは粗野な唯物論の夢幻的目標を求めてゆく平凡な物品となり終わるか、その何れかであろう。

 賀川豊彦は若くしてこの挑戦に応じたのであった。近代日本の渦巻の唯中に於ける彼の奮戦は、正に新日本の建設に役立つ典型と解決策とを示すものである。翻訳者は、この研究の再叙述により、彼のこの連闘の物語をこの時代に我々に輿えて呉れたのである。その労に對して私は衷心より個人的謝意を表したいと思う。そして訳者と共に、これがこの様な時代の日本の青年諸君に役立って、青年諸君が人生最高の目的・父なる神、イエス・キリストによる解放――を自覚せんことを心から所るものである。

   一九四九年一月
                            アーサー・シー・クヌータン






                    訳者の言葉


 現在もそうであるが、戦時中もアメリカにおける日本研究は、われわれの想像以上に盛んだったらしく、日本に関する研究書というと争って読まれたという。その中に交って、戦前にも増して売れた一日本人の傅記があった。そしてこの日本人の傅記は、営時アメリカの敵國人伝記中のベスト・セラーであったともいう。

 そればかりではない。戦時中、一人のアメリカ人牧師が、一人の一日本人の研究をこつこつとつづけて、これをアメリカの大學に提出し、見事に哲學博士(Ph.D)を獲得したというから驚くではないか。

 戦時中よく売れた日本人傅記の主人公も、また博士論文の主題となった日本人というのも、共に賀川豊彦氏であっ。アメリカにおける賀川氏の人気が、戦争中も戦前に劣らぬもののあったことが判る。尤も賀川伝や賀川研究書がアメリカで出版されたのは今回が初めてではない、プリンストン大學での賀川氏の同窓バン・バーレン(Van Barlen)が”Kagawa,the Christian”を出し、またヘレン・タツピング嬢(Helen Topping)が“ lntroduction Kagawa “というのを出版し、アメリカ以外でも三四種類出ている。また賀川氏の傅記だけで一巻としているのではないが、コロンピア大學教授ベーカー(Baker)の近著Darkness of thc Sun(1948)はその一章を割愛して戦時中の賀川氏の行動に詳細の論評を加えているが、しかし前記の賀川傅と博士論文は、その規模の大さにおいても研究の深さにおいても圧倒的である。

 伝記の方の標題は、“Kagawa” ニューヨークのハーバー・ブラザースの出版、著者はアキスリング(Axling)というバプテスト教会の宣教師である。この著は一九三三年に初版を出したが、戦争後二章を追加し一九四六年改訂増補版を出した。新版は表紙に戦前の元気な賀川氏の写真と戦後の樵悴した賀川氏の写真を並べて出してあるのもアメリカ人好みらしく、博士論文の筆者はクヌーテン(Kunten)といいシカゴの産、本年五十二歳。一九二〇~三五年と一九三七~四一年の前後二十年、ルーテル教會の宣教師として日本に滞在し、戦争勃発と共に帰米、戦時中(一九四一~四四年)は太平洋沿岸で教會を牧し、在留日本人のためにも善く面倒を見てくれた。そして牧會の傍ら南加州大學に席を置き學位請求諭文として“ Toyohiko Kagawa and modern tendencies in Japan”を執筆し、一九四六年見事に Ph.Dを獲得し、一昨年一九四六年再び日本に来朝、目下日本神學校教授の任にある人。
                              
 論文はタイプで三百頁を越え、引照文献にあげられた賀川氏の著書百十三冊というから、賀川氏の主なる著書は殆ど渉猟した訳である。日本人でもこれだけ多く賀川氏の著書に目
を通じた者は恐らくないであろう。

 さて、論文の内容であるが、クヌーテン氏はこの論文の目的を次のように述べている。

 本研究は日本國家の社會機構と現代日本の社会、経済、宗教生活における諸要素を分析することを目的として、賀川豊彦の生活、事業、基督教哲學を研究するにあると。

 つまり、日本人賀川豊彦という一個の人格を通し、彼の生涯と事業を検討することによ って、日本における社會経済宗教の諸動向を見ようというのである。これがため、次のよ うな順序で賀川豊彦が如何なる人物であるかを研究しているのである。

 1 非基督教的環境に育った彼が基督教に触れたことにより、彼の人生観が如何に変わって行ったか、また  2 日本になお陋乎として残滓をとゞめていた封建的遺産と如何に戦い、また如何にこれを改造するに役立ったか、そして 3 彼の基督教としての行き方が日本の将来に如何なる意味を持つか。

 クヌーテン氏は賀川氏を検討するに先立ち最初の数章を近世日本社會史の研究に割いて、これはわれわれ日本人には別段珍らしいことはないが、ただ興味を惹くことは、被圧迫階級擁護のために、圧迫階級特に武士階級に對抗して侠客道が発生したと述べ、これが賀川氏の血液の中に黒々として傅わっているとし、賀川氏の犠牲と奉仕の精神およぴ後年の華々しい社會活動はこれに胚胎している――としている一事である。

 北村透谷は日本の封建思想は市井の間に二つの形をとって現れた、一つは艶、もう一つは侠――といっていたが、クヌーテン氏は後者を指摘し、これを賀川氏の人生観と結びつけている、この点など面白いと思う。
                 
 明治四十二年のクリスマスの前夜、二十一歳の侠客的神學生賀川は神戸貧民窟の中へ自ら車を引いて引越して行った。そこで彼は愛の飢饉と貧困の諸相に泣き、深刻な人間苦と社會苦の存在を嘆かしめられた。そして基督の救いは単なる教え、Teachingにあるのではなく、基督を実践する道way にあるということを悟った。――という。しかし賀川氏は「基督道」の実践のために、傅道と同時に救貧事業を起したが、それも砂上に楼閣を築くに過ぎないことを、ほどなく悟った。貧之をなくすために無産者を組織せねぼならぬ――かくて彼は労働蓮動に突進して行った――と見る。

 また、精紳運動には社會運動と兄弟愛運動の二面のあることを多くの教會の人々は忘れているが、賀川氏は克くこの両面を活かして、日本における社會秩序建設の一大推進力とすることを得た――とする。さらに、賀川氏は、日本を救う道は社會連帯の精紳を基盤とし、互助犠牲による外はない。つまり、十字架意識に目覚め、イエスの贖罪愛を現代に実践する事こそ日本を救う唯一の道だ――とした。彼のスラムにおける働き、労働運動や農民運動の陣頭に立つのも、協同組合に精進するのもみな贖罪愛の実践の一つ一つに外ならなかった――とクヌーテン氏は見ている。

 だが、オーソドックスの人々はこれを外道だとし、そして「賀川に神學ありや」と嘲る。これに對し氏は賀川に神學はオーソドックスの人々の如く偏侠でないだけである、という。

 基督教の分野で賀川氏に對する避難のあるように、社会運動の陣営でも氏は左右両翼から批難をうけた。左方では唯物論と暴力には真っ向から反對し、右方では資本主義と保守思想に反對する彼には当然のことだった。だが彼は毅然として軍國主義と階級闘争に反對し、イエスの無抵抗愛を堅持して、トインビーやキングスレーと同じ行き方をしつづけて来たとある。

 彼は教會と社會を結びつけ、精神運動と社會運動を結びつけ、さらにイエスの贖罪愛まで持って行こうとして彼はそのため自ら教派も作らす、各教會の傅道を扶け神の國運動の推進力たることを期し、一方、政府と国民に呼ぴかけて愛と互助による日本の再建に精励し、また無戦世界の実現を期して、戦時中もその説を曲げすに来た。そのため昭和十五年には小川清澄――訳者の一人――と共に非戦論者として憲兵隊に拉致され、約一ヶ月囹圄の裡にあった。この事を当時渡米していたクヌーテン氏は新聞の東京電報で知って、賀川の健在を知ったといっている。終戦直前、賀川氏の対米放送が東亜共栄圏を是認するものだとして非難のあったに對しても、ク氏は、賀川氏の平和主義に微動もなかった事を述べて毛をふいて傷を求める論者をたしなめている。

 クヌーテン氏のいわんとするところは、要するに賀川氏が日本の社会維新の動揺期に生れ、基督に對する献身と貧民窟及び社會運動における涙ぐましき体験を通じて愛と犠牲を基盤とする哲學を打ち建て、爾来約四十年、保守過激の両思想に挟撃されつつも、日本の再建が軍國主義及び階級闘争によって得られず、愛と互助によって得られるものであることを力謝して絡始変わらざりしことを指摘し、今後もイエスの贖罪愛を日本的に消化して日本の社會秩序の推進に努めて行くであろうことを期待し、「最近日本の諸動向の検討」の結びとしているのである。

 クヌーテン氏の賀川研究は賀川氏の全貌を活寫しているというよは政、よくその精神を把握しているといいたい。猟師は山を見ずという。日本人は却って日本人を知らない。外國人が却って日本人を知悉する。賀川氏の知己は今日においては日本よりも、むしろ海外にあるといえよう。クヌーテン氏はその一人だ。日本人は多分、賀川氏が棺を覆うて後、はじめて賀川氏の真価に気づくのであろう。

 本年は賀川氏の生誕六十年、いわゆる還暦である。また氏が貧民窟に挺身して以来、四十年に当たる。われわれ同志はこれを祝いたいと願ったが、賀川氏はこれを斥けて「祝ってほしくない。それよりもみんなのたましいをほしい」と諧謔した。そこでわれわれ両人はこのクヌーテン博士の研究を翻訳し、たましいに添えて、氏にささげようと考えついた。幸いクヌーテン博士は快く翻訳を許諾され、小川は賀川氏の事業財團雲柱社及び國際平和協會の専務理事としての用務の、また村島は乎和學園の経営と早大における講義の余暇を盗んで、こつこつと翻訳の筆を進めたが、博士は常に訳者に對し奨励と助言を惜しまれなかったのみならず、原文が前記の如き長篇で、訳書にはその全部を収録することが困難となり、博士の苦心になる冒頭の日本社會史の記述と、周到綿密なる各章の引照をカットするのやむなきに至ったに對しても唯々諾々凡てをわれわれの意に委せられ、また本書がアメリカにおいて出版の予定になっていたにも拘らず、これに先んじてタイプの論文原本から直ちに翻訳することを許るされた博士の寛容と好意に對しては只だ感謝のほかはない。

 なお本書の翻訳は前半を村鳥が、後牛は小川が担当したが、中途にして両人とも健康を   
害したため、村島健一及び出本賀代手嬢の助力を得たことと、校正その他についても同様の理由で出版元の福永孝一、會田七郎両氏及び高橋碞、黒田四郎両氏を煩した。記して感謝の意を表する。

    一九四八年十一月二十日

                          訳     者


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