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連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第176回)

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「神戸森林植物園にて」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


       賀川豊彦の著作―序文など

      わが蔵書棚より刊行順に並べる

             第176回


       藤阪信子著『羊の闘い―三浦清一牧師とその時代』

  
 前回、三浦清一氏の『世界は愛に飢えている』を取り出したので、引き続いてここでは2005年8月に熊本日日新聞社より刊行された藤阪信子氏の力作『羊の闘い―三浦清一牧師とその時代』を挙げて置きます。

 賀川豊彦と三浦清一の関わりなどは、その関係年表を含めて本書で立ち入って触れられているので、お読みいただくとして、ここでは著者の「序文」と「あとがき」のみ紹介させていただきます。

 そして、「啄木と光子」に触れて書かれた木村勲氏執筆の文章(「朝日新聞」平成8年11月7日付け)のものも参考までにテキストにして打ち出して置きます。



                    まえがき


 出会いは一篇の詩から始まった。その詩には、働き手を失った阿蘇の老農夫が、見舞いにもらったカライモを前にして、つつましく感謝する姿がうたわれていた。ありきたりな阿蘇讃歌ではなく、社会の底辺に目が向けられていることに感銘した。作者は三浦清一。はじめて聞く名前だった。解説者の話によると、熊本県出身の牧師で、夫人は明治の天才詩人石川啄本の妹光子だったとのこと。啄木との意外な縁に驚きながら、どんな人物だったのか、ほかにはどんな作品が遺っているのか知りたくなった。何年もかけて手探りで少しずつ調べていくうちに、一篇の詩の背景とそれに対する作者のスタンスが見えてきた。

 昭和初年。なんと暗い時代だったことだろう。世界恐慌のあとの豊作飢饉と翌年の大凶作。学校へおべんとうが持って来られない子どもたちがいた。家族を救うために泣く泣く身売りされる娘たちがいた。清一は貧しい農村を伝道しながら、彼らの悲しみを知ったのだろう。わずかなカライモを前に老人は「なんごつもなあ、おてんとうさんのおかげでござりますたい」と言うのだった。おてんとうさん(超越者)に対する絶対の服従と謙虚さ。拝金主義がはびこる現代では、かけらも見ることができない人間精神だ。

 日米の混血児として逆境の中で育った清一は、若い日から貧しい人や弱い人の味方になろうと志した。社会主義を学んだのも、キリスト教の牧師の道を選んだのも、同じ心から出たことと思われる。彼の近くには、社会的関心の強いキリスト者の群があった。彼らの思想を一言でいうなら「自分一人の魂の平安にとどまらず、神の愛を社会へ広げよう」ということになろうか。いわば「一匹の羊」であった清一のこの世との闘いには、この国とキリスト教のありようが、少なからず絡んでいるように思う。こういうわけで、まずはキリスト教が、あけぼのの明治に入ってきた経緯から始めたい。

 お断りしておきたいのは、本書でいうキリスト教は十六世紀にザビエルによって日本に伝えられたカトリック(普遍的・公同的という意味)ではなく、形式化し、腐敗した当時の教会を批判して立ち上がったプロテスタント(抗議する者の意味)の流れである。キリスト教は、わが国では長い間、邪教視され、ほとんど根こそぎになるくらいに弾圧された。明治六年の開教と同時にカトリックもプロテスタントも伝道を開始したが、カトリックを旧教、プロテスタントを新教と呼んでいる。


                     あとがき


 清らかで、豊かな水流を誇る熊本県南の緑川。そのほとりの竜野村出身だった三浦清一。石川啄本の望郷の歌で知られる岩手県北上川の渋民村で生まれた石川光子。南と北の、出会う機会とてなさそうな二人を結んだのはキリスト教であった。啄木一家の悲惨をつぶさに体験した光子は、自立したくて、聖公会の婦人伝道師となり、神学生の清一と熱烈な恋愛の末に卒業と同時に結婚した。長身でハンサムな清一と七歳年長ながら、色白で小柄な光子は、似合いの夫婦に見えたという。

 阿蘇から出発した結婚生活は伝道生活と重なっており、はじめから世間並みの家庭生活ではなかった。牧師一家の暮らしは、ただでさえ私的な部分が犠牲にされがちだが、清一には社会改良の夢があったために、一層の困難を伴うものだった。炭鉱地帯や離島・僻村への伝道、キリスト愛の実践活動としてなされた信仰共同体「阿蘇兄弟団」の結成…。彼の伝道力には目を見張らせるものがあり、どの教会に赴任しても、たちまち教勢(教会員の数)を伸ばした。その情熱的な説教は若者や学生たちを感奮させ、ぞくぞく教会の門を叩かせたという。彼らを夏期キャンプなどに誘えば、満天の星の下で夜を徹して祈ることができる牧師だった。弁舌が巧みだっただけではない。ペンを執れば、内にあふれる思いを自在に表現できる文章力をも持っていた。伝道のための宗教小説やエッセー、評伝を書いたばかりか、なかなかの論客でもあり、詩も書いた。

 光子は牧師夫人の役をけんめいにつとめた。しかし、清一の社会主義的傾向には早くから危うさを感じていたようだ。不安は的中して、CMS(英国聖公会宣教協会)による念願の英国留学は敵性人物と断じられて差し止められてしまった。それも教会内部からの密告だった。また第二次大戦が始まると、治安維持法違反の疑いで逮捕され、鉄窓の生活を送るという憂き日にち遭った。孤独な獄中での転向と敗戦後の再転向。思想や信念が日常の魔によって浸食されて行く過程は今後さらに解明されなければならないと思う。

 世間では光子を頑固で冷たい女だと見ているようだが、筆者は純粋一途な面を待った不器用な女性だと感じている。時に激しさを丸出しにしてしまうのも、そのせいだと思うのだ。繊細な光子に比べると、清一は、大らかで逞しい。義侠心から厄介な仕事にも手を出さずにはいられない。戦後は免囚保護施設「愛隣館」の館長をしながら、兵庫県の県議として恵まれない人たちのために働いた。次第に政治にのめり込む姿を見て光子は嘆いていたという。過労のため、ついに清一は倒れた。葬儀が終わって、党旗の赤旗を柩から外させて、神の前に送る光子の行為は、彼女の生涯のハイライトではないかと思う。このとき二人の心はピタリと一つになった。光子はどんな場合でも、清一に天上へのまなざしを忘れさせないマリアであったといえよう。

 実をいうと、本書は一九九六年四月から翌年三月まで熊本日日新聞の夕刊に宮崎静夫さんの静謐重厚な挿絵付きで連載したものを見直し、大幅に加筆したものである。本書を未熟ながらようやくまとめることができたのは取材に応じてくださった方々のご支援があったればこそ。なかでも熊本日日新聞の井上智重さんには始終気にかけていただいた。門外不出の書類を提供してくださった神戸の三浦哲朗さん、資料収集の面で長い間、根気よく協力された東京は松沢の賀川豊彦記念松沢資料館の元研究員米沢和一郎さんにはお礼の申しようもない。それに弟の藤坂史人は煩わしい事務処理の一切を引き受けてくれた。出版に際しては熊本日日新聞情報文化センターにお世話になった。その他、協力してくださった方々のお名前は巻末に記すことでお礼のしるしとしたい。

 本書は幾度となく取材に同行し、おぼつかない仕事のゆくえを案じながら、病で逝かねばならなかった亡夫神津正巳に献げるものである。ことばでは、とうてい言い得ない思いも共に受けとってもらいたくて。

  二〇〇五年五月
                  若葉かおる夢窓文庫にて
                                藤坂信子





     関連資料 「朝日新聞」平成8年11月7日付 木村勲氏執筆の記事

            「風景:ゆめうつつ」(17)
      
               石川啄木と妹・光子
               透徹した兄への視線


  船に酔ひてやさしくなれる
  いもうとの眼見ゆ
  津軽の海を思へば

 明治四十年(一九〇七年)五月、明星の新進歌人・石川啄木(一八八六~一九一二)は津軽海峡を渡る。二歳年下の妹・光子を伴っていた。そのときの歌である。

 妻子、母も続いて郷里・岩手の渋谷村をたち、函館に着く。

 小学校の代用教員だった啄木のストライキ扇動事件、そして寺の住職をしていた父・一禎が檀家に相談せずに裏山の木を売却した問題などがこじれたあげく、「石をもて追はるるごとく」の一家の出郷だった。

 函館、小樽、釧路、そして東京と、困窮の生活が続く。啄木が結核で短い生涯を終えるのは海峡越えから五年後のことだ。

 それから半世紀、昭和四十年(一九六五年)二月、大阪府高槻市の啄本研究家・天野仁さんは、神戸市兵庫区楠谷町にある社会福祉法人の養護施設「神戸愛隣館」を訪ねた。かねて会いたいと思っていた理事長との約束がとれたからだ。

 理事長は三浦光子、旧姓・石川、つまり啄木の妹である。このとき七十七歳。

 愛隣館の玄関を入ると、奥の部屋から電話で激しく応酬する女の人の声が聞こえた。四、五十代くらいの、歯切れのいい関東弁だ。相手は新聞社で、記事への抗議らしい。電話が切れ、一転して愛想のいい、小柄な女性が現れた。その人たった。

 光子は函館時代、キリスト教 の婦人伝道師と親しくなり、名古屋の聖使女学院に進む。卒業後、布教活動に入り、大正十二年に牧師の三浦清一と結婚して、夫婦で各地を布教した。 

 啄木は明治四十四年、二十四人もの死刑判決者を出した大逆事件に衝警受付「時代駱の啓ヽ光ぶ暑中休暇霜用の現状」を実感し、急速に社会主義思想に接近している。だが、光子のキリスト教とのもともとの出あいは、生来の唯物論者だった兄の示唆によるという。

 光子が渋民の高等小学校を終盛岡女学校に入学が決まったとき、「これを読め」と兄は ぶっきらぼうに「旧・新約聖書」を手渡した。

  クリストを人なりといへば、
   妹の眼がかなしくも、
    われをあはれむ。

 死の前年の夏、東京・小石川の家で、光子が暑中休暇を利用して啄木を看護したときの作だ。二人はいつのまにか宗教論争を始め、盛んに妹を冷やかしていた兄がまくら元のノートを一枚破り、「これを読んでごらん、ふふふ」と笑いながら見せたのがこの句たった。

 昭和十九年、三浦夫妻は、クリスチャンで社会改良家の賀川豊彦から神戸愛隣館の経営を任される。東京に住んでいた光子は翌春、寸断された列車を乗り継ぎ神戸にたどりつく。四月十日、啄木の命日だった。理事長の夫は昭和三十七年に没し、光子が跡を継いだ。

 夫をみとった後、光子は交際を避け、愛隣館にこもり、『兄啄木の思いで』(理論社、昭和四十年刊)を書き上げる。序に書く。

「世の多くの啄本研究家は木をあまり小説の主人公にしすきている。そろいうところははっきりけじめをつけて赤裸々な啄木を理解することこそ必要なことなのではないか」

 啄木の小説化、そして演劇・映画化は戦前から始まった。劇的効果を高めるパターンさえ成立した。「困窮の中に天才歌人を支えた貞淑な妻(節子)」に対して、「兄嫁いじめの小姑(光子)」というものだ。 

『兄啄木の思いで』にはこれに対する女性らしい反発も含まれるが、人間・啄木を見る視線は透徹している。刊行から三年後の秋、光子は七十九年の人生を終える。六甲の緑に抱かれる土地で、数十人の子らの母として生きた最後の四半世紀だった。

 彼女は「津軽海峡の荒い波のうねり」と重ねて兄を思いだしたという。兄の知らぬ西の国で、思想的には一見対立する荒波の人生を歩んだが、実は啄木の目指すものを地道に実践したのが光子であったように思う。

 啄本にこんな歌もある。

    わかれをれば妹いとしも
     赤き緒の
    下駄など欲しとわめく子なりし 
 ’
 自分譲りのきかん気、手ごわいケンカ相手、兄にはそれがまた愛らしかったのだろう。

 神戸愛隣館は光子の死後数年で閉鎖された。今は、木造二階の校舎風の建物があった敷地に、民家が立ち並ぶ。地元でもかつてのことを知る人はほとんどいない。
                                     (木村勲)
   


              啄木の熱情引き継いだ三浦


 神戸愛隣館は明治三十一年、篤志家・村松浅四郎が生田区(現・中央区)内に設立した出獄者更生施設がルーツ。外国婦人から一万円の寄付があり、明治三十九年、兵庫区楠谷町に木造二階建ての建物が新築された。

 収容者は年間六百五十人、相談・指導は千数百人を数え、米国のミッションの教師たちが協力した。村松は昭和九年に賀川豊彦に事業の継承を頼み、賀川からさらに三浦夫妻に託された。戦後は児童福祉法に基づく養護施設として再出発した。

 三浦清一は熊本県出身で、福岡の神学校時代に賀川の著作に接し、神戸に来て師事した。詩人でもある。昭和十八年に発表した「熱帯の空、秋漸く動き ほのかなる郷愁、わが心に在り」などの一節を含む「郷愁」が反戦詩だとされて、七百日間の獄中生活を送った。

 賀川は三浦の戦後の詩集の序文に、「彼は小作人と無産者のために、その血涙を捧げ、石川啄木の熱情を現代生活に織り出さんと努力してきた」と書いた。戦後、社会党の兵庫県会議員を務めている。



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