スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第179回)

1

「百日紅の花」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


         賀川豊彦の著作―序文など

        わが蔵書棚より刊行順に並べる

             第179回


      黒田四郎著・渡辺善太・武藤富男序『人間賀川豊彦』

  
 標記の著書は、賀川豊彦没後10年(1970年)、賀川と歩みを共にした黒田四郎氏の作品で、キリスト新聞社より出版され、旧約神学の長老・渡辺善太氏と武藤富男氏の「序」が収められています。その「序」ふたつを取り出して置きます。



                  序


 賀川豊彦君を識りえたのは、私の生涯の一つの感謝すべきことであった。私は彼について知れば知るほど、他の友人には余り用いたことのない「畏友」という語を用いてきた。この「畏」という語を、彼の場合、とくに用いるのは、次の理由によるのである。

 この理由のその一は、彼が「教会の福音宣教」という線と、「教会外社会活動」とを、混同することなく、それぞれの本質を保たせ、かつその死にいたるまでこの二点を筋を通して貫いたという点である。理由のその二は、この二点を彼は、理論だけでなく、周囲の人々からも、また多くの知人からも、彼の弱い肉体への影響がどうあろうと、心配されたほど、かつその全存在をかけて実践した点てある。

 私がなぜこの二つのことのために、彼を私の「畏友」とよんだかというと、この点において彼は私という人間とは、同じくキリスト者であり、同じく伝道者であるという点で共通性をもちながら、その現われ方は私と全く異っていたためである。否・私にはやろうとしても出来ないやり方だったからである。

 私とてもキリスト者であり、伝道者であるから、これに当る使命の遂行には、今年数え年八十六歳になるまで、全存在をかけてきたつもりである。だがその私はこの使命遂行を「聖書解釈の理論」の追求と建設とにより、教会の生命力を盛んならしめんとつとめてきた。そして社会的活動などということは、意図的ではなかったが、ほとんど注意をも向けず、ましてやそれに対する努力などをしたことはなかった。一言でいえば、賀川が教会内外に血の汗を流しながら、肉体的にまで影響を及ぼすほど活動したのに対し、私は書斎で、聖書と取り組み、聖書自身の「かくあるべきだ」というその自己主張にのみ耳を傾け、学校の教場と書斎とで、ふつう珍らしいほどの長い生命を与えられながら、その全部を費やしてきたのであった。つまり賀川豊彦なる「人間」は、前述のごとき信仰的共通点をもちながら、私という人間とは、根本的? に違った人間だったのである。
                                   
 それだけではない。私の長い信仰生活の間に、前述の「福音宣教」と「社会活動」との何れかに傾き、他の一つを失ってしまった誠実にして真剣な伝道者があったが、彼らの多くは、この二点のうちのどちらかにその全存在をかけてしまって、他を失ったという人々が非常に多かったことをみてきている。しかるに、くり返していうが、賀川は、この両点を生涯保持しつづけ、貫き通したのであった。これが私をして彼を、「畏」友と呼ばしめた理由である。

 だがこの黒田四郎氏の書全体を通読しても、次の点に関する賀川の「苦悩」したということは一言も書かれていない。その点とは、私か悩みに悩んだ「キリストを信ずる信仰に入る時のそれ」と「その為に全き献身をするのに苦しんだ」という点とである。このことは私には理解できない。私には「この『苦悩を』味わないところに、本当のキリスト信仰なるものがあるだろうか」という疑問さえもたれる。しかも今日まで長い信仰生活にこの苦悩の絶対的必要を考えつづけてきたことである。いうまでもなく、異教徒なる日本人が、キリスト信仰に入るには、これがあるのが当然だという、渡辺自身の経験を前提した、この考え方があったわけである。

 だが賀川にはこれが全然なかったようにさえ――この黒田さんの書物を通読すると感じられる。しかもこんな苦悩などがなくても、賀川はあの偉大な福音宣教者として、また社会活動家としての、「献身」より勝っているとさえ――こんな表現ほまちがっているが、表現のために用いる――想われる生涯を送ったのである。

 この点が、黒田さんのこの書にしるされていないのは、「彼にはあったが、他人にそれを語るのを好まなかったため、黒田さんがそれを知らなかったのか?」という疑問がもたれる。黒田さん赦して下さい。こういうのは、これほど私がこの一点を重んじてきたのだということをいいたいためなのです。たしかに賀川は、この苦悩を味わなかったのだろうと、今は考えています。

 この意味においても、この賀川豊彦なる「人間」は、私に対しては確かに「畏」友とよばなければならない友人であったのである。

 その賀川の一印が明らかにせられているこの書が、今や黒田四郎さんの筆によって書かれ、キリスト新聞の手で刊行されるようになったことは、私には歓び以上の感謝である。この書がのこっていれば、今の青年の「造反時代」が過ぎて、一応しずまれば、賀川豊彦の名とその生涯の意義とが、もう一度日本全国に示されるようになることと、その時の来ることを、私はここに信じてこの言葉をかいている。

    一九七○年七月
                              渡辺善太
 



                    
  

 賀川先生の運動は先生一人で行なったものではない。多くの人材が賀川という偉大な人格のまわりに結集し、集団としての力を発揮し、日本の社会に働きかけたものである。

 この集団を内閣にたとえ、賀川を首相に見立てると二人の有力な閣僚があげられる。その一人は亡き小川清澄先生であり、もう一人は黒田四郎先生である。小川先生は賀川先生の運動における外交方面を担当とした人物であり、外務大臣にあたる。賀川先生が外国伝道に出かける時は、小川先生は影の形に添う如く賀川先生と行を共にした。国際平和協会や世界連邦運動など、みな小川外相が賀川首相を立てて推進したものである。

 小川外相に対して内相の役割をはたしたのは黒田四郎先生であった。小川外相が先生の後半生に奉仕したのに比べ、黒田内務大臣は貧民窟時代から賀川首相を助けた。国内伝道における賀川先生の大きな働きの蔭には黒田先生の人知れぬ苦労と奉仕があった。この内相は首相と起居をともにし、食事を共にし、風呂を共にし、首相から背中を流してもらった。数千の聴衆の前で獅子吼して熱狂的拍手を受ける賀川先生、福音を語って満堂に悔改めを促す賀川先生、貧しき者、弱き者のために涙して、有り金をはたいて与える賀川先生、詐欺師、ペテン師をそれと知りながら欺かれたふりをして、その後姿に向かって祈りをささげる賀川先生、こうした偉人と苦楽を共にした黒田先生は日本において賀川先生の人物と生活とを最も深く知っている人である。単にこれを知るというだけでなく、これを味わい、これを究めた人であるというべきである。更に進んで賀川の信仰を受けつぎ、その人格を継承した人であるといいうるであろう。

 この書はその意味において賀川豊彦に関する著作のうちで特異なる存在であり、英文学の古典たるボズウェルのジョンソン伝の様式をもつ賀川伝である。

 賀川豊彦の名が若い世代に忘れられつつある時、またその信仰と人格と事業と精神とを歴史の記録としてとどめず、進んで現代に再現すべき必要に迫られている時、黒田老牧師によりこの本があらわされたことを、日本のため喜ぶ次第である。更にこの本が翻訳され世界各国に行き渡り、全世界の賀川観に補完がなされることを待望するものである。

  一九七〇年七月
                          武藤冨男



スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

keiyousan

Author:keiyousan
このブログのほかに同時進行のブログもうまれ全体を検索できる「鳥飼慶陽著作ブログ公開リスト」http://d.hatena.ne.jp/keiyousan+toritori/ も作ってみました。ひとり遊びデス。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。