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連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第185回)

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「神戸中央体育館あたり」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


        賀川豊彦の著作―序文など

       わが蔵書棚より刊行順に並べる
 
             第185回


        徳憲義著・賀川豊彦序『生命の歩み』
  
 大正15年10月に新生社より出版された徳憲義氏の著作には賀川豊彦の重要な序文が収められています。徳牧師は、関西学院神学部の学生の時から、賀川の初期の活動に加わり、神戸イエス団にとっても関係の深い方で、昭和37年には追悼集『愛しつつ祈りつつー故徳憲義記念』が出されて、武内勝氏の寄稿しています。

 ここでは、本書の賀川の序文を収めて置きます。



              序


 貧民窟では、毎年関西學院神學部から、応援者を迎へるのが恒例であった。その年も、私は、二人の新らしき神學生を迎へた。それは私が貧民窟へ入ってから三年目の四月であった。神戸の空は晴れ渡り、桜が綻んで皆浮れて居た。殊に原田の森は緑なす六甲の輝きをうけて、社會の嘆きを忘れるほど若い人の胸を溶けさせて居た。さうした中から、特に撰ばれて、貧民窟に応援に来られた兄弟は殊勝な魂の持主であると、私は心からの尊敬を捧げたのである。最初別科から送られて来た、坂本、矢田、山中の三君は、日曜學校に専念して呉れた。その中に送られた今琉球那覇で働いて居る伊東平次君と、シャトルで働いて居る兄弟とは、叉一生懸命に日曜學校や路傍説教を手傅って呉れた。そして徳君と平野君とが、第三年目に神戸の貧民窟に送られた人々であった。

 孤立無援の私には、その常時の思ひ出が最も深い。坂本君の大きな聲、矢田君の静かな物語り、歌の上手な伊東君、自分の家に貧乏な公卿華族が六人も寄留して居るといふ、雷の逃げ出す様な大聲の持主の平野君、そして脊の低い、色の黒い徳君、私は、関西學院から送って来られる神學生の方々に、非常に面白い對照を発見して、皆が熱誠をこめて、私を援けて呉れることを心から戚謝して居った。

 勿論私は其当時、最極端な青年であった。発狂して居たと考へられて少しも差支へない。そのとき私の最好きな文句は、『心狂へるならば是神の為』といふ文句であった。然し、その当時の思ひ出は嬉しい。徳君は、學校の都合で一年しか貧民窟を援けて呉れることは出家なかった。然しその一年が私にとっては実に感謝すべき一年であった。私は、その常時のことを思ひ出すと、涙が眼ににじむことを感ずる。多情多感の肯年として、棺桶に片足をつき込んで居た私が、死線を越えての奉公であるだけに、真剣であったことだけは認めて貰ひたい。友人といふものは廿歳前後に出来る友人が最親しいものと見えて、私は今も貧民窟を援けて呉れた此の神學生諸君に、心から感謝と、愛着をもって居る。

 徳君は、まだ故郷の中學校を出たばかりであつた。私も若かったが、徳君も若かった。然し徳君は不思議に話の上手な青年で何時もまとまった話をして呉れた。教会堂と云っても珍無類の教會で、六畳長屋を三軒ぶっ通した柱ばっかり真中に突立って居る、バラックよりも悪い教會であった。然もその入口が三尺しかない通り道を、二度もうねりくねって這入って行かねばならない、妙な奥まった所にあった。青年の元気がなければ、迚(とて)もそんな所で傅道は出来るものではなかった。然し幸に吾々は青年であった、集會は少くて三十人多くて六七十人集るのが常であった。そのときでも吾々は、一町四方にきこゑる様な大聲で、一萬人位が眼の前にあるかの様な、ロ調で預言者的口吻を以って絶叫したものである。ある人は、それを犬が吼えるのだと云ったが平田君や坂本君の聾は確かに犬以上で獅子に近かったことは、近所があまりに八釜しいので迷惑を咸じたことでも解る。私も勿論、平野君や坂本君には負けなかった。その常時私の聴衆の一人であった妻が遠方から聞いて居ると喧嘩して居る様です、と云ったことがあるが、それは本当である。そんな大きな聾を出さなければ、悪魔が逃げないと思ったのである。聴衆は、紙屑買のお婆さんや、豊年屋のおかみさんなどが多かった。それに向って平野君は哲学講演をよくしたものである。無限絶對の奥義については勿論のこと相対、神秘、プラトニックラプ、因果律、何でも知って居る六ヶ敷い言葉は若い神學生のロから洩れた。之を、笑ってはならない。理解させ様と、努力した所を買って貰はねばならない。

 徳君はそのうち學校で非常に評判がよくなった。よく読むのと、頭がいいので友人の間に重んぜられた。そして雄辨大曾には、いつも関西學院を代表して出られる様になった。然し、君の名聲が高くなると共に、他の教会倉の懇望で、貧民窟には、見えられなくなった。卒業後、徳君は青木澄十郎先生の教会を援けることになった。そして、アメリカに行く準備をせられて居たが、その教会が日本基督教会から独立することになって、高松のメソジスト教会に移られた。私は高松でも徳君に逢って非常に嬉しかった。一九二五年ローサンゼルスに行ってみると徳君が、東に行く為めに、労働して居るのを見て吃驚したのであった。然もその店の経営者である永峰氏が、十数日間も徳君に暇を呉へられて、私との奮交を温めさせて呉れたことを、心から感謝したのであった。摂理といへば摂理だが、ローサンゼルススで永峰氏の仲介で、徳君と私が、もう少し深く交はり得るとは考へなかった。

 徳君は、情熱の人である。汽車の動くのは熱で動くのだが、人間の動くのも矢張り熱だ。そして徳君は人を動かす力の持ち主である。彼の容貌をみて居ると、そんな熱情の詩人らしくは見えないが、彼が一旦口舌を開ぐと、彼はデモスデネスの雄辨を持って居る。私は、徳君を幸福な人であると思ふ。ローサンゼルススで同志たちが作ったイエスの友は、当番幹事の一人に徳君を挙げて、遠いインペリアルバレーまで遠征を試みた。そして、不思議にも神の祝福は、彼の行く所を開いて、聖霊の使徒として徳君を迎へた。コーチュラーバレーで一村全部が基督教信者になったことなどは有富虎之助君や他のイエスの友の助力があったとは云へ主として、その勝利を徳君の努力に帰せねばならぬ。

 私は徳君が幸福なる人であることを云うた。実際此書が世に出るのも、彼を愛する友人達が、その原稿を日本に持って帰って家て主としてアメリカの同志たちに頒ける為に、印刷したのである。

 徳君は今、私の母校プリンストンに居られる。帰って来られたら、叉日本が賑かになることであらう。私は日本の田の面が色づいて来たときに、徳君の様な有力な戦士を日本に與へられたことを心から威謝せざるを得ない。此書は、必ずしも徳君の思想体系の全部ではない。恐らくは、その片鱗にしか過ぎないであらう。然し、徳君がどんな考へを持って居らるるか、吾々に物語らんとするかは此書を読めばよく解ると思ふ。只不幸にして、彼の魅力ある雄辨が紙面に音符として表れて居ないことである。

  一九二五年十月五日                    賀 川 豊 彦
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