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連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第202回)

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「明石公園にて」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


         賀川豊彦の著作―序文など
        
         わが蔵書棚より刊行順に並べる
 
               第202回


       米沢和一郎編『人物書誌大系37:賀川豊彦

  
 米沢和一郎氏の標記の労作は、前作『人物書誌大系25:賀川豊彦』につぐものです。本書も大変有益な著作のひとつですが、ここでは、米沢氏の「まえがき」と「あとがき」を取り出して置きます。


                    まえがき


 世に政治家の“改革”と称する世直しは多い。そうした試みのことごとくがうやむやに終わるのも日本的な傾向のようだ。それは“リンリリンリと鈴虫でもあるまいに”と改革を那楡した政治家の言葉に刻まれた如く、人間の精神の根幹にかかわる肝心なことが忘れられた改革であったからではなかったか。“日本は豊かな国になる しかし心の貧しい国になる”(1946年)は、生涯政治家にはならなかったというより、何度担ぎ出されてもなろうとはしなかった或る改革者の言葉である。その言葉は、日本の改革の廃れゆくうねりをあざ笑うかの如く、はからずも今の世を映し出しているではないか。その言葉の主で、過去に“大正デモクラシーの寵児”と呼ばれ、幾多の社会改革の潮流を起こす働きをした賀川豊彦は、今の日本では忘れ去られた存在になった。

 いや編者の視点から言えば、完全に忘れられた存在ではなかった。日本のバブル崩壊後、金融機関破綻の原因になった不良債権問題が世を騒がしていた時、東京下町の某信用金庫では不良債権ゼロという堅実な経営が話題になったことがある。その金融機関の創立者は賀川であった。勿論、不良債権ゼロと、創立者賀川とは直接の因果関係があるわけではない。だが創業精神との関係からいえば、金融のプロではなかった創業者の遺訓が効いたのではないかというのが話題になった。それに阪神淡路大震災が起った時、ボランティアの存在が社会の脚光を浴びた。そこでも賀川が神戸から関東大震災救援活動をした時のボランティア活動が、マスコミで取り上げられた。

 当時の社会と、現在の高度に組織化された社会では単純に比較は出末ないが、いつの世も行政の対応のまずさにつきもののボランティアの社会的ニーズに変りはない。それもありボランティアの先駆者としての活動が取り上げられたのである。それは単に原初的な使命感による日常的なボランティア活動だけでなく、その後の行政施策に対する苦言や提言をともなった現在のオンブズマンの役割や、ボランティアを地域で組織化するスーパーバイザーの役割をも担ったものであった。神戸スラムからいちはやく駆けつけて、東京・本所でボランティア活動を定着させたのも、ボランティアという言葉がまだ社会に定着していない時代であった。賀川自身の造語でいえば“義勇奉仕者”としての働きであった。ボランティアの先駆けと呼ばれたゆえんである。神戸スラムでの救済活動の義勇奉仕者の経験は、東京本所でより組織的な義勇奉仕者活動として生かされたのである。すべての点で行動が先であった改革者賀川が、本所で取り組んだのは“救貧より防貧”という地域定着の長期的な救護活動であった。前記した東京下町の金融機関は、そうしたユニークな取り組みから生まれ、地域に根ざした活動を展開して来た伝統があった。編者は賀川亡き後の社会に生き続ける賀川の働きの現代的展開を見続けてきたといっても過言ではない。

 日本のキリスト教界での賀川観を反面教師として考える時、こうした賀川の働きの現代的展開を考えることで、宗教と社会問題の視点から賀川の働きを浮き彫りにしようとしてきた。それは、日本の評価より高いSocial Reformer賀川への海外での見方でもあった。いつからかそうした日本と海外の賀川観の違いを浮き彫りにすることが、賀川の働きを書誌に刻む上で必要不可欠なテーマとなり、同時代人の視点から賀川を考え直す編者の座標軸になっていた。そのため、キリスト者に限定せず、光と影を包括する視点から発された各界人による色々な賀川観を収集して来た。

 『人物書誌大系25賀川豊彦』(以降前版と略記)上梓の1992年から時を経て、賀川豊彦書誌をまた世に出して頂くことになった。賀川の働きの資料は、直系・傍系に加えて派生するものを含めてそれだけ多い。それは前版のキリスト教関連の内容だけを見てもおわかりいただけること。実は、キリスト教社会運動家賀川の日本近代史における社会運動資科の大半の収録を、前版ではやばやと断念した経過がある。そこで前版編集段階で、以下のような事情により収容枠からはみ出した、主にこ近代史・キリスト教社会思想のものを主体にして今回出版することにした。

 その前に前版編集過程をかいつまんで説明する必要がある。まず、前版では著作・翻訳書の全容がわかるように重点を注いだ。それは『賀川豊彦全集』全24.巻が、実質『選集』でしかない内容であることに加えて賀川著作の中にある第三者序文が割愛されていることなど、その収録内容にも不備が目立つたからである。それを補完する意味合いもあり、執筆の全体像を浮き彫りにする為に、キリスト教部分でも賀川ミッション主体のものを主に網羅した。これには理由がある。当時在職していた賀川ミッション経営のパーソナル・ミュージアムにある資料では、賀川豊彦個人雑誌などの肝心の基本的資料が揃わなかったことを考慮して、欠本収集から始めた。それを復刻版(「賀川豊彦個人雑誌 雲の柱」「火の柱」「神の国新聞」「世界国家」)に作成しながら、その編集作業と並行して、書誌編集作業を進行させざるを得ない事情があった。いわば賀川の基本的な資料を網羅することに労力を注いだのである。そのためキリスト教資料に偏る形になった。敢えて舞台裏を明かせば、賀川ミッションのパーソナル・ミュージアムに所属して、レファレンスや、閲覧や、展示という通常業務を行いながら、書誌作成という二足のわらじを履いた作業であった。しかも、書誌作成の過程で、賀川ミッションから編集経費等の財政的措置はなく、もともと赤字の財団では書誌作成は無理な話であった。そうした前版の経過から海外の財団の個人助成を受けながら、いわば足で集めた賀川関係資料収集から構築した書誌となった。

 前販編集での舞台裏の事情で今も思い出すのは、日本社会の近代化の中での賀川の働きを読み通すことが出来なかったということであった。つまりめぼしい賀川研究は殆どキリスト教部分のものしかなかったのである。それ故、個人助成で多数収集していた近代史資料の収録は見送った。それには以下のような事情もあった。当時の賀川ミッションの状況からいえば、まだ“賀川教”と呼ばれる人たちが、賀川の評価を第三者に委ねられないでいた。編者は、当時賀川ミッションのパーソナル・ミュージアムで、賀川を公正に伝える仕事に従事しながら、そうした“賀川教”信徒とのせめぎあいを強いられた。つまり顕彰レベルの状況の中では、社会運動部分よりもキリスト教部分だけで伝えようとする賀川ミッションとしての趨勢があった。そうした状況を投影したキリスト教同志達による回想資料が大半だった。それはそれで証言として意味のあることではあったのだが、資料考証に基づく客観的な科学的研究は、まだ乏しいといわざるを得なかった。それもあり、第三者による参考文献より、賀川著作・翻訳書や賀川の雑誌掲載稿にこだわり執筆活動の成果を浮き彫りにすることを重視した。それでも色々な制約から収録できなかったものが多数あった。例えばGHQ接収資料のなかにある賀川豊彦執筆資料は格段に多かった。そわが日本で閲覧出来るようになる前から、編者はアメリカでデータ採川にとりかかっていた。そうした欧州と日本での賀川|情報採録の進捗状況を見据えた取材でもあった。それを今回一部ではあるが収録対象とした。あとは、戦時下中国で刊行された日本語文献のなかに出て来る賀川のものが課題として残った。それと“外地”すなわち旧植民地時代の満州、朝鮮、台湾での賀川情報である。それは量的にもGHQ資料中の賀川をはるかに越える膨大な資料であった。これとは別に戦前中国で刊行の賀川文献と、中国人牧師による中国語のものもあったのだが、全体として戦時下欧米のミッショナリーの外国人宣教師による欧文資村が多かった。そうした賀川著作の海外翻訳はその一部を今回収禄することにした。そうした一例の中にも賀川の見逃すことの出来ない働きがある。その現代的意義を伝える目的で、今回日本語版賀川著作の外国語翻訳版の展開が伺える内容を日本語に翻訳して一部収録した。だが“外地”と“日系人”資料は、包括してWorld Bibliographyに収録することにした。

 その間、筆者はMissionaryの援助によって3年半アメリカ各地で賀川資料収集取材を繰り返していた。それが『世界は賀川豊彦をどう見たか』出版のプロジェクトとなったのである。

 アメリカ・ヨーロッパ・オセアニア・アジアで収集していた賀川関係文献も含めて、その間、欧米で収集した資料と、前回前版で見送った近代史資料の活用を、どういう形で生かすかをいつも考え続けてきた。そうした積年の思いを、今後どう発表して行くかについて、ここでかいつまんで触れて置きたい。本来ならば、海外書誌によくある全ての言語を包括した完全なToyohiko Kagawa World Bibliography として一本化したかった。それが、光と影の交錯する賀川の海外と日本の評価の格差を考慮した場合、賀川の働きを伝えるベストな方法であろうと考えていた。だがそれは日本語分と、それを上回る海外分とであきらめざるを得なかった。それだけ海外での評価資料は突出していたのである。そうした経過により日本の諸事情から断念するしかなかった。

 そこで、『世界は賀川豊彦をどう見たか』欧米篇は、アメリカの某大学出版局から出版を予定している。『世界は賀川豊彦をどう見たか』極東篇ともいうべき内容のものが、本書『人物書誌大系37 賀川豊彦』である。当然この二書は、賀川の何の働きを、どう見たか、という第三者の参考文献主体の組み立てとなった。従来個人的に収集した賀川文献の補遺分を含めた近代史資料は、前版から漏れた新聞・雑誌の賀川豊彦稿を含めて殆ど本書に厳選収録した。さらに、欧米篇を睨み合わせた年譜を収録した。尚前記してきたように、近代史篇の収録基準ともいうべき視点は、宗教と社会問題を通して賀川の働きを考えるということに尽きる。

   2006年5月
                        編者 米沢和一郎



                   あとがき


 『人物書誌大系25 賀川豊彦』出版から時を経て、賀川研究を取り巻く事情もだいぶ様変りした。その原因の一つは、賀川を知る同志たちがこの世を去り、賀川教信者が少なくなってきたことがあげられよう。それに賀川豊彦令息の死去もある。編者が、パーソナル・ミュージアム館長であった令息に仕えたのは延べ14年に及ぶ。彼との話しを通して、賀川豊彦という人間を知ろうと、本音をぶつけ合ってきた。それが賀川を伝えることにプラスに働いているかどうかはわからない。だが、忘れられてゆく賀川を現代にどう伝えるかを考えるとき、今思い返して見てそれは無駄ではなかったように思える。思うに、ご遺族として賀川教信者が母体のイエスの友会を頼った顕彰レベルの活動に終始した令息は、日本での賀川評価に対してあきらめ切れない思いがあったのではないか。編者は今そう感じている。

 本書編集の際には、ここにお名前を出し得ないほど色々な方々の協力を仰いだ。今思い出すその顔の殆どは海外の人々である。 Missionary Libraryがない日本でまとめるよりも、むしろ調査の効率性を考え海外機関で世話になっていた。そうした関係機関の協力者諸氏に対してあらためて感謝の意を表したい。反面それは賀川豊彦をまとめることに対する日本の状況に、抜き差しならない不信感を感じた結果でもあった。それほど賀川に対して何かをするということに、日本からの援助は得られなかった。というより得にくい状況であったといった方が正解かもしれない。

 ただ例外もあった。現在編者は、大学の研究所に所属しながら、積年の賀川豊彦の取材資料を研究Toolsとして発表することに忙殺されている。この書執筆後に「明治学院大学キリスト教研究所紀要38号」に“Realistic Padfist賀川豊彦と中国”2006.2.20.と『賀川豊彦の海外資料一光と影の評価を読み取るためにー』2006.3.31.を発表した。これらは前記した過去の経過からすれば、例外的措置ともいえる恩恵であった。そうした機会を与えてくれた明治学院大学キリスト教研究所の元所長加山久夫名誉教授、前所長中山弘正明治学院大学経済学部教授、現所長橋本茂社会学部教授、前主任播本秀史文学部助教授、殊に研究所の賀川研究プロジェクトの責任者永野茂洋教養教育センター主任教授には、前教学補佐の竹野美保子さん、教学補佐の石垣博美さんともども、公私ともに色々な面で、この間ご面倒をおかけした。この場を借りて御礼申し上げたい。

 編者は海外取材を終え、16年半に及ぶ全ての取材のデータ・ベース化作業に2年間を費消した。その間、殆ど週一回のベースで、人力作業や、考証資料の人手まで、お手伝い頂いた中塩夕幾さん(東京都立大学大学院博士課程)には、言葉が見つからないくらい大変なご面倒をおかけした。ここに深く感謝の意を表したい。末筆になり恐縮だが、前版以来の本書の刊行を色々相談して大変ご面倒をおかけした、日外アソシエーツ社編集部比良雅治氏にも、その労に感謝の意を表したい。

 終りに、2年前に亡くなった母は、敬虔なカトリックのクリスチャンだった。それもあり、母として、また私設秘書として、編者がこの仕事をすることに、理解ある協力を惜しまなかった。例えば、秋田市大町教会で宣教師をしていたトラウトの秋田市中長町時代の生活をよく知っていた。その母の情報をもとに、トラウトと連絡がとれた時、彼女はやはり秘書だったタッピング同様、日本での賀川評価にやり切れない思いを持っていた。晩年まで秋田に格別の思いを持っていたトラウトは、中長町の隣町に育った編者の取材の目的を知り殊のほか喜んでくれた。前版のまえがきに記した母からの情報によって多くの恩恵を得て来た。いわば最大限の助力をして貰いながら、この書の完成をともに迎えることができない。その恩に報いることが出来なかったことが何よりも悔やまれる。ここに謹んで本書を母に捧げたいと思う。

   2006年5月
                       米沢和一郎


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