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連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第203回)

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「六甲高山植物園のサギソウ」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


        賀川豊彦の著作―序文など

       わが蔵書棚より刊行順に並べる
 
              第203回


         雨宮栄一著『青春の賀川豊彦』
  
 本書は、2003年9月に新教出版社より出版されました。本書に続いて2冊の賀川関係の著作が出版されています。

 ここでは、雨宮延幸氏の巻頭の言葉と著者による「あとがき」を取り出して置きます。


               『青春の賀川豊彦』刊行に際して


 前東駒形教会牧師であり、本所賀川記念館の理事でもある雨宮栄一先生の『青春の賀川豊彦』が刊行されることになったことは、記念館として喜びと感謝に耐えない。なぜならこの著作は、もちろん先生個人の執筆によるが、記念館の大切な活動としている「賀川研究会」の中より生まれたものである。

 財団法人・本所賀川記念館は、一九六九年、賀川先生が残された日本キリスト教団東駒形教会と中ノ郷信用組合、それに雲柱社の三者が中心になり創設されたものである。この三者の拠出金と全国から応募された九八〇名の献金によって造られた。その目的は、この地において賀川豊彦の志と遺業を、何とか継承したいというものであった。そして初代理事長として賀川はる夫人を迎えたのである。その後三〇年余り、この地でその働きを続行していることを感謝している。

 省みると、この本所の地と賀川の関係は深い。言うまでもなく一九二三年九月一日、突如として発生した関東大震災により、東京全体、とりわけこの本所の地は壊滅的な打撃を受けた。当時、神戸の新川にいた賀川は、青年有志と共にこの地に来て、住民と苦しみを共にすべくセッツルメントを設け、救援活動に従事したのである。そしてここに「本所基督教産業青年会」が創設され、キリスト者青年たちの献身的な努力により、その活動領域は多方面に展開された。その宗教部が東駒形教会の前身であり、幼児教育が光の園保育学校になり、組合活動の部が中之郷信用組合となり現在も活動している。その他生活協同組合、教育活動、医療活動と展開したが、戦争中、政府の規制、あるいは統制経済政策、あるいは戦災によって壊滅した。ここよりさほど遠くない場所にあった、東大の新人会セッツルメントも同じ運命を辿るに至ったことは知られている。

 一九六九年に設立された「本所賀川記念館」は、この「本所基督教産業青年会」の志を何とかこの地で、新しく継承したいという思いで設けられたのである。したがってこの働きの中に、賀川精神の明確化を目指して「賀川研究会」が作られ、今日にいたっている。

 雨宮先生が東駒形教会に赴任されたのは、「本所賀川記念館」設立後三年目の一九七二年であった。先生は着任後、直ちにこの記念館の働きに積極的に参加して下さり、理事として責任を負って下さった。とりわけ「賀川研究会」における学習に際しては、指導的な役割を担ってさった。そして時折のシンポジウム、また講演会にも助言と協力を惜しまれなかった。理事長として、私は『賀川豊彦研究』の刊行に責任を感じ、ともかく今日まで続行できたことを喜んでいる。日本の賀川研究の水準を、いくらかでも高めることが出来たなら、幸せなことこれにすぐるものはない。

 雨宮先生のこの『青春の賀川豊彦』は、この研究会の中から誕生した。具体的に述べると、記念館の機関紙『賀川際彦研究』の刊行四五号になっているが、先生の執筆はその内二二号に及び、二八号から三八号に連載されたものの集成・加筆されたのが本書になる。

 先生はかねがね、数ある賀川伝には出自資料が乏しいことを指摘されていた。先生は資料のために、松沢資料館を何回となく訪ね、さらに神戸、さらに足を伸ばして徳島の賀川の故郷、また「死線を越えて」を賀川が書いた場所である、愛知県の蒲郡を歩いて巡られたとお伺いしている。

 『賀川豊彦研究』二九号(一九九五年二月)の編集後記に記した拙文には次のようにある。「雨宮栄一先生は、一定の学的水準を保った『賀川豊彦伝』が必要であるとし、それには賀川の出自から青年時代に光を照射して、謂わば『若き日の賀川豊彦』を書くことであるとされて…… 熱意をほとばしらせて筆をとりはじめられ……新鮮な感覚の『賀川豊彦伝』の実現に大きな期待が持てる」。
 これが達成され、今回、本書の出版の運びになったことは、感謝の至りである。

  二OO三年七月
                     本所賀川記念館理事長  雨宮延幸



                   あとがき


 この東駒形教会が生まれたのは一九二三年である。あの関東大震災直後、神戸・新川にいた賀川豊彦が救援のため、震災で一番ひどい災害を受けた本所の地に設けた「本所基督教産業青年会」の「宗教部」を前身とするものである。筆者がこの教会より招聘を受けて赴任した一九七二年には、木立義道さんを初めとして、まだ賀川より親しく指導を受けた方々がご存命であった。勿論現在でも健在の方がおられる。いずれも立派なキリスト者であり、そしてなかなかの器量人であった。当時、この教会から招きを受けた筆者は、賀川豊彦についてほとんど知らず、日本の若い教職が抱いている平均的な賀川理解--そこにはいくらか誤解を含めて―-より以上のものを持っていなかった。

 けれども、賀川に指導を受けた人たちに接して改めて考えさせられたことは、これだけの人達に深い影響を与え、また動かした賀川の存在の意義はなんであるのかということであった。また「本所基督産業青年会」の志を何とか継承しようとして設けられた「本所賀川記念館」――教会と光の園保育学校と同一の建物内にある――の働きに参加し、その一つである「賀川研究会」を場として、若者たちと共に賀川の生涯、また思想を学んできた。賀川の志を今一度発掘し、それを生かしたいと言う願いからである。「継続は力なり」という言葉があるが、細々としたものであったがともかく二○年以上続けられたし、今でも変わりはない。その歩みの中で考えさせられたことは、賀川豊彦の生涯を、その出自より神戸・新川までの二一年間に限定して研究し叙述する必要がありはしないかということであった。題すると「青春の賀川豊彦」ということになる。しかしそれは何故であるのか。

 今日、賀川に関する研究書はまことに多い。米沢和一郎氏の編になる「人物書誌大系二五 賀川豊彦」(一九九二)にある「参考文献目録」をみても驚くばかりの物であり、また賀川の伝記に至っては、何と三四冊挙げられている。

 しかし、省みるとその伝記を記した方たち、そのほとんどが賀川と直接、信交のあった方々であり、あるいは教えを受けたり、指導を仰いだりした人である。いわば賀川の手のぬくもりを知る人によって記されたものである。そのことにはそれなりの意味があり、いままでの賀川伝の特徴とすべきであろう。

 けれどもこの特徴は、同時に限界になる場合が多い。つまり著者が賀川より受けた影響力に圧倒され、賀川を師と仰ぎ、賀川を礼賛するあまり、その生涯を記すのにいくらか客観的な判断を欠く場合があるということである。やむを得ないといえばそれまでであるが、この方たちの賀川伝の特質であり、また欠点でもあった。

 しかし現在、賀川研究はようやくにして、第二の時代に入ろうとしている。つまり筆者を含めて、生前の賀川と直接交わりを得なかった人たちの手に移りつつある。このものたちの欠点は、直接、賀川を知らないことにあるが、しかしこの欠点は同時に利点になる可能性をもつ。つまり歴史理解に必要な客観的な判断が得られると言うことである。つまり歴史的な判断には、一定の時間的距離を必要とする。いや空問的な距離さえ必要とする。その距離を、この第二の世代の人たちは手にしているということでもある。つまり現在は、第二の世代の者たちによる賀川豊彦の伝記が可能にされつつある時期と言いうる。つまり、一方的な礼賛からも、また一面的な誤解からも自由にされてその研究なり伝記を書くことが可能にされていると言えようか。果たしてこの「青春の賀川豊彦」がどこまでその自由を生かすことが出来たかどうか、最早読者の判断を仰ぐよりほかはない。

 さらに今ひとつ、何故「青春の賀川豊彦」として、賀川の伝記を若き時代に限定したのかということである。その理由として、とりわけその晩年、各方面に多岐にわたり展開された賀川の全生涯を、全面的にかつ全般的に記すことは中々困難であるという消極的な理由なくはない。しかしより積極的な理由として、賀川の全生涯は、いわば若き日に彼が新川に入る際の決心と決断の繰り返しと連続ではなかったかという予感、予測がある。あの決心と決断が賀川の生涯の原点ではなかったのかという判断がある。

 新川に在りながら労働運動へ、また震災後の東京・本所におけるセッツルメント事業へ、また農民運動へ、生活共同運動へという賀川の働きの展開は、要するに、賀川の若き日になされた新川に入る決心の繰り返しであり、その決断の延長線上において理解されるべきことではないのかという判断がある。

 したがって、彼か新川に入るまでの、青春時代の賀川の内的精神的発展を追うことにより、その後のきわめて多岐にわたる賀川の活動の原点、あるいは原像が見出せるのではないかということでもある。ここに賀川の歩みを、その青春時代に限定した理由がある。これまたどこまで、それが出来たかどうか分からない。ここでもまた、筆者としては読者の判断にゆだねる他はない。

 この書物の大部分は、本所賀川記念館発行の『賀川豊彦研究』と『東駒形教会月報』に発表されたものの修正加筆したものである。時期的に言うと、東駒形教会牧師の時代と、中部学院大学教授の時代にまたがる。大学において〈宗教と人間〉という講座を持ちながら、そこで学んだものでもある。感謝している。

 ただ筆者の願いを記すならば、このようなつたない試みを契機にしてでも、賀川の研究がより活発になることである。そのための捨石ともなれば、これほどありかたいことはない。今日、日本の教会は重大な岐路に立たされている。このとき、在来の一方的な礼賛と偏見から自由にされて、賀川の歩みは見直されてしかるべきではないだろうか。

   二〇〇三年四月 東京/越中島にて
                           雨宮栄一

 付記 ここで大切なことを記しておく。この書物において、「新川」という表現が用いられている。今日においても、この表現は差別的な意味に用いられる場合があると聞く。したがってその使用を躊躇したが、事柄が歴史的な出来事に関することと、この言葉でないと事実をより正確に表明できない場合のあることを考え、敢えて用いた。この表現が、差別的な意味を持たなくなることを願いながら。


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