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連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第207回)

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「神戸文学館にて」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


       賀川豊彦の著作―序文など

      わが蔵書棚より刊行順に並べる
  
             第207回


      鳥飼慶陽著『賀川豊彦の贈りもの―いのち輝いて』

  
 本書は、2007年4月に創言社より刊行されました。鳥飼の賀川三部作の最終巻です。ここでは、「はしがき」を取り出して置きます。



          はしがき―「賀川豊彦献身100年記念」を前に
 

 不思議なご縁で「賀川豊彦」に魅せられ、はや50年が過ぎました。高校生のときに出合うことのできた牧師夫妻から、はじめて「賀川豊彦」について学び、その影響で牧師の道へと導かれ、いまにいたりました。


 この牧師夫妻は「鎌谷幸一・清子」御夫妻で、夫婦とも牧師でした。幸一先生はすでにその生涯を終えておられますが、清子先生は90歳をこえてご健在です。5年前『賀川豊彦再発見』を謹呈したおりも、わざわざ丁寧な御手紙を届けてくださいました。その文面には、つぎのようなことばが記されていました。


 「賀川先生は、私にとっては信仰の大恩人、そしてお兄さんの様に懐かしい人です。優しく厳しく導いていただいた、とっても身近に思える先生です。
私が幼少の頃、両親と死別し、親亡し児と言うことで、この世にすねてひがんでつっぱり、いわゆる問題児になってみんなに心配をかけ、親族会議の結果預けられたのが『武蔵野農民福音学校』、所謂『賀川農場・賀川塾』でした。全国から私の様な子供たちが預けられて塾生活をしておりました。(中略)
 昭和10年2月10日、雪の降る聖日、賀川先生より洗礼を受けたのです。20歳の時でした。賀川先生のその柔らかい温かい手のぬくもりは忘れられません。そしてえくぼのあるあの笑顔は、今もこの目に焼き付いています。(中略)
愛の人・赦しの人、徹底して愛の深い、寛い、赦しの人との印象が強く残っております。難しいことは、私にはわかりませんけれど、とにもかくにも素晴らしい先生でした。こうして書いてくださったこと、とても嬉しくありがとうございました。」


 賀川豊彦と同時代を生きてきた人々が、だんだんと少なくなるなか、賀川を直接知らない世代に属するものが書いたこんな小さな作品でも、こうして忘れえない日々のことが、いま新しく甦る契機にはなるようです。嬉しいお手紙でした。


            「賀川豊彦生誕百年」から20年


 ご記憶の方もあると思いますが、1988(昭和63)年は「賀川豊彦生誕百年」の記念の年でした。あれから早くも20年近くの歳月が過ぎました。


 あの年は映画「死線を越えて・賀川豊彦物語」をはじめ演劇、講演会やシンポジウム、資料展示や写真集の出版等々、多彩な事業が展開されました。当時は、賀川豊彦と共に歩まれた先達が、まだ多くご健在でした。いずれの企画にも、静かな熱気が漂う意義深いもので、いまもあのときの記憶が、鮮やかに想い起こされてまいります。


 とくにあのころ、キリスト教界の、なかでも日本基督教団にあっては、賀川没後20年以上を経たなかで、当時の部落解放運動による差別糾弾闘争の余波を受け、同時に教団の抱えた内部の事情もからみ、いわゆる〈「賀川豊彦と現代教会」問題〉といわれる「難問」に突き当たっていました。一般にこれは「賀川問題」とも呼ばれていましたが、それは賀川豊彦の「部落問題認識」と彼の「部落解放運動に対する批判と離反」、ひいてはその「福音理解の問題」にまでおよぶものでした。


 ここで展開された「賀川批判」は、あまりに一面的なものであったことから、同じ教団に属するひとりとして、1986(昭和61)年5月、直接当時の教団総会議長宛に「質問と希望・意見」を提出するなどした上で、もっぱらこの問題の解決のために、わたしにとって賀川に関するはじめての著作『賀川豊彦と現代』を、兵庫部落問題研究所より刊行したのでした。それが丁度この「賀川豊彦生誕百年」の年とかさなりました。


 これに対する教団関係者からの直接的応答はありませんでしたが、本書に対する一般読者からの、思いもかけない大きな反響をお受けしました。多くの新聞や雑誌でも取り上げられ、各種の集会において「賀川豊彦」を物語らせていただく機会まで与えられました。


 賀川豊彦は現在、その名前さえ知らない人々もけっして珍しくありません。しかし一方でなお多くの人々の心のなかには、彼の献身的な生涯の足跡が、ずっと消えずに生きていることを、再確認させられることになりました。


 そして、あれほど声高に取り上げられた「賀川問題」も、日を追うごとに影をひそめていきました。あの「賀川豊彦批判」は、新しい時代につなぐ積極的なものをほとんど残さず、未消化のまま「沈静化」していったように、わたしには映ります。


 逆に、あの乱暴ともいえる「賀川批判」を機縁にして、これまでにも倍して、身を入れて「賀川豊彦を学ぶ」幸運に恵まれることになりました。


 こうして第1作の『賀川豊彦と現代』から14年後の2002(平成14)年秋には、その間に与えられた愉快な諸経験を書きとめたものをまとめた小著『賀川豊彦再発見―宗教と部落問題』を創言社より刊行できたのでした。そしてこれも、お蔭様で第一作同様、多くの方々に受け入れていただきました。


 かてて加えて、柄にもなく幾つかの大学や専門学校で「人権教育」もしくは「人権論」を講じてきていましたので、第2作の刊行以後、これを授業のテキストに活用して、現代を生きる若い学生諸君に、いっそう新鮮な今日的な問題意識を盛り込んだ「賀川豊彦講義」をおこない、現在に至っています。


 そこで今回、前作からはまだ日を重ねていませんが、その後の諸論稿と講演記録などの中から、「賀川豊彦と部落問題」に言及した第3作目として、本書『賀川豊彦の贈りもの・いのち輝いて』を刊行することにいたしました。


 まずはこれで、わたしにとっての「賀川豊彦3部作」ということになります。


                   本書の構成


 本書第一章は、1960(昭和35)年にその生涯を閉じた賀川豊彦の「没後40余年」の時の流れを、私的な歩みと重ね合わせて、できるだけわかりやすく簡潔にまとめてみた「個人的ノート」です。


 はじめにこれは、兵庫県人権啓発協会の『研究紀要』第4輯に発表されたあと、『人権の確立に尽くした兵庫の先覚者たち』(同協会発行)その他でも、求めに応えて公開されてきたものです。


 つづく第二章では、これまで過熱気味に論じられてきた「賀川豊彦と部落問題」を、この段階で総括的に整理し、「部落問題の解決と賀川豊彦」として概観してみたものです。


 これも未熟な忘備録ふうのノートのままですが、最初、明治学院大学で開催された賀川豊彦学会の公開講演会で発表のあと、『賀川豊彦学会論叢』第14号に掲載され、このたび部落問題研究の老舗として知られる、京都の部落問題研究所の研究紀要『部落問題研究』の最新号(第177号、2006年10月)に補筆して収めたものです。


 右の第一章と二章のふたつの論稿をもって、これまで「賀川豊彦と部落問題」として論じられてきたものに、一応の決着をつけることができたのではないか、と考えています。


 なにぶん、「賀川豊彦と部落問題」と申しましても、一般にはほとんど関心もなく、正確な情報も届きにくい主題でもありますから、「賀川豊彦の贈りもの・いのち輝いて」という著書のなかで、この問題を直接扱うのには、正直なところ、少々場違いの感もあるかもしれません。


 しかし「賀川問題」が右のような経緯であっただけに、「賀川豊彦と部落問題」に関する基本的な理解と、それに対する自らの見解をもつことなしには、どこかほんとうには賀川豊彦理解に一抹の不安を覚えてしまう、といわれる方々も少なくないようです。


 もちろん、この問題はけっして難しいことではありません。この機会に、問題の所在がどこにあったのかを見ていただいて、わたしのような「ひとつの見方」もあることを、目に留めていただくことができければ、有難く存じます。そしてここに書き記した「ひとつの見方」に対して、こんごも読者の厳しいご批評を期待して、さらなる研鑽を重ねていきたいと願っています。


 ところで、第三章の「21世紀に生きる賀川豊彦」は、わたしの属する日本基督教団の、四国教区徳島分区信徒会の総会にお招きを受けたおりの、下書き草稿です。


 わたしにとってはこれまで、教団内部からのこうした講演依頼は、じつは大変稀なものでしたので、格別の印象を残しています。御覧のように、そこでのお話は、いつものようにまとまりのないずさんなものですが、講演のあとの皆さんとの「開かれた自由な意見交換」は、わたしにとってありがたい経験でした。


 本書でも記していますように、わたしたちは、1966(昭和41)年4月より、賀川豊彦の働きのなかで成長してきた「神戸イエス団教会」から招聘されて2年間、貴重な経験をさせていただいた後、1968(昭和43)年春からは、神戸における賀川のもうひとつの活動拠点として知られる長田区番町地域で、「在家労働牧師」としての新しい生活をはじめました。


 もう40年近くも前のことですが、当時はまだ、同和対策の特別措置法が策定される前で、「未解放部落」などという用語が違和感なく使われていた時代でしたし、この地域はとくに「大規模都市部落」として広く知られていて、解決すべき諸課題が山積していた時代でした。


 相方と共に「牧師としての按手礼」を受けた後でしたが、六畳一間の小さな我が家を「番町出合いの家」と名づけて、夫婦ふたりの牧師だけの(当時は幼いふたりの女の子がいましたが)、日本基督教団公認の伝道所としてスタートしました。


 わたしたちが「牧師」であることも、我が家が公認の「伝道所」であることも「知る人ぞ知る」ままに、「日々の出合い」を楽しんで、感謝のうちに歩んでまいりました。


 33年間という長期にわたる同和対策事業の法的措置の期間を終えて、はや今年(2007年)まる5年も経過しています。多くの人々の努力がみのって、かつての地域の生活環境は一変し、人々の暮らしも変りました。


 わたしたちも、ありがたいことに、いつも「大きないのち」の支えと励ましを受け、多くの先達や友だちにも恵まれて、「在家労働牧師」としての、小さな歩みを、こんにちまで継続することができました。激動の渦のなかにありながら、そのなかで「信じて生きる」ことを、いくらかでも学ぶことが出来たように思います。


 歩み始めたしばらくのあいだは、日々の労働とともに山積みされた地域の課題に没頭していて、まさにモグラのような暮らしに明け暮れていましたので、教区・教団との直接的な責任ある関係は、ほとんど持てず、「在家労働牧師」として生きるという「ひとつの実験」に打ち込むときがつづきました。


 ところが、1970年代になってから日本基督教団は、教団関係者の出版物に「差別表現」があるとして「部落解放同盟」による「確認会」をうける事態をむかえます。本書でふれていますように、1980年代には、日本の宗教界は、仏教教団を中心に「部落問題フィーバー」で大揺れいたします。


 それは、1979(昭和54)年の第3回世界宗教者平和会議における曹洞宗宗務総長の発言(「日本の国の中には差別待遇はない」として「報告書」から「日本の部落問題」を削除させた)をめぐる問題などを契機にして、日本の宗教教団に対する厳しい「確認・糾弾」行為が行われ、1981(昭和56)年には「同和問題にとりくむ宗教教団連帯会議」という、特定の運動団体との連帯組織がつくられていきました。


 わたしたちの教団もこれに積極的に加わり、教団内に「部落解放センター」を設立して連帯活動をすすめていきます。


 そして、特別措置法が策定されて31年も経過し、神戸では「同和対策事業」そのものを終結してしまった2000(平成12)年7月になって、わたしたちの教団では、はじめて「日本基督教団部落解放方針」を決めて、「教団・教区・教会として部落解放運動」をすすめようとしています。


 これは、右のような複雑な全国的な状況と教団内部の諸事情を反映したものとおもわれます。


 部落問題解決の歩みは地域によって大きく違いがありますが、神戸においては、すでに1971(昭和45)年の神戸市独自の詳細な「同和地区生活実態調査」を踏まえて「長期計画」を策定し、総合的な同和対策事業が開始されていました。


 ですから、1974(昭和49)年11月に引き起こされた、あの兵庫県立八鹿高校教師への「部落解放同盟」による「集団暴力事件」を契機に、行政も部落解放運動も、そして地元自治会組織などもこぞって、神戸市独自の計画方針を再確認して「長期計画」の完全実施にあたり、結果的に「部落解放同盟」との決別の道を歩むことになりました。


 神戸における部落問題の解決の独自な歩みについては、本書でもふれていますが、わたしたちの場合、教団および「部落解放センター」の右のようなとりくみには、こんにちにいたるまで、一定の距離を置いて批判的立場を頑固に貫いてきました。


 この間の、キリスト教界の部落問題への関わりについての批判的吟味は、右の事件が起こった年(1974年)の春に設立した「神戸部落問題研究所」(後に「兵庫部落問題研究所」「兵庫人権問題研究所」へと名称変更)の研究紀要『部落問題論究』などで「キリスト教と部落問題」や「宗教の基礎」といった諸論稿にまとめて発表してきましたし、それらはのちに『部落解放の基調―宗教と部落問題』(創言社、1985年)に収めましたので、御覧頂いた方もあると思います。


 震災のあとには『「対話の時代」のはじまり―宗教・人権・部落問題』(兵庫部落問題研究所、1997年)を、そして前掲『賀川豊彦再発見―宗教と部落問題』などで、日本の宗教界の抱えこんでいる基本問題を解くための「対話的解決のすすめ」を提起して、微力ながらその責任を果たしてまいりました。


 こうした歩みのなかでの、四国教区徳島分区信徒会総会における講演と「開かれた自由な対話の場」でありましたので、わたしには格別の喜ばしい機会となったのです。


そして第四章〈「賀川豊彦」小さな断章〉に収めた二篇の小品は「寄り道の一服」といったものですが、そのうちの一篇は、1988(昭和63)年4月以来18年間にわたって、神戸・六甲山の豊かな自然のなかで学ぶ「神戸保育専門学院」の学生たちとの恵まれた出合いを経験させていただきましたが、そこでの感謝の気持ちを記したものです。この学院は、賀川豊彦の遺志を受け継いで建てられ、惜しまれつつ昨年(2006年)3月末で35年の歩みを終えました。


 最後の第五章「いのち輝いて」は、賀川豊彦にふれた部分はわずかですが、2005(平成17)年の夏、京都府京丹後市の幼小中高の先生方の主催になる人権教育関係の研究大会での講演草稿です。


 今日の学校教育の現場は、教師の方々も生徒たちも、また教育行政に関わる人々も、地域の父母にあっても、複雑な新たな問題を抱え込んでいます。


 賀川豊彦の生涯がそうであったように、困難のただなかにあって、いつもあきらめずに、「いのち輝いて」生きることのできる「確かな土台」が、すべての人と共にあることを、読者のみなさんにお伝えしたくて、本書の最後に収めることにいたしました。


 2006(平成18)年の世相を象徴する「漢字」に「命」が決まり、清水寺管主による見事な「命」の文字が揮毫されたニュースが、昨年暮れに流れました。


 この「いのち輝いて」という言葉は、近年「人権教育」の講義の主題にしていますが、賀川豊彦の波乱に満ちた生涯は、まさしく「いのち輝いて」あゆむ一歩一歩でした。


 賀川自ら書き残した365日の日々の黙想『神と歩む一日(WALKING WITH GOD』(日曜世界社、昭和5年)にしたがって、実際に「新しい朝」を迎えてみるときに、あらためて今、そのような想いがいたします。


 「いのち」は確かに「天与の賜物」です。「いのち」は授かったものですから、自分勝手にはできません。授けていただいたお方の「いのち」だからです。
「いのち」は確かに、まず第一に「天与の贈りもの」です。


 賀川豊彦は「天与の贈りもの」である「いのち」に出合い、「いのち」のダイナミズムに、すべてを委ねて、無心に毎日を生きました。


 そうした想いを活かして、第五章の表題を、本書の副題に入れてみました。
 果たして本書の全体が、うまく「起(第一章)承(第二章)転(第三・四章)結(第五章)」とつながって、無理なく読みすすんでいただけますかどうか。


 書名とした『賀川豊彦の贈りもの』は、前作『賀川豊彦再発見』のなかに収めた小稿のタイトルですが、あの小稿は「2001年神戸聖書展」のときつくられた『神戸と聖書―神戸・阪神間の450年の歩み』(神戸新聞総合出版センター)に寄稿したもので、賀川豊彦の〈独自のコスモロジー〉と〈「生き方」の開拓〉を、そこでは取り上げました。


 自らつけたこの「賀川豊彦の贈りもの」というネーミングが、なぜかわたしには気に入っていましたので、ここで活かしてみたのです。先日、本書の目次を先輩の延原時行先生にメールしたところ、すぐに短い返信があって「題が良いですね。贈りものは、賀川が天与の贈りとして受けたものでしょうね―第一義的には。第五章が貴兄の本領でしょう。楽しみに存じます。」と激励されました。この簡潔な返信の言葉は、「賀川豊彦」を物語るとき、特に大切なことでした。


             「賀川豊彦献身一〇〇年記念」を前に


 ところで、間もなく2009(平成21)年の「賀川豊彦献身100年記念」の時を迎えます。すでに2005年5月には「記念事業委員会」の全国委員会が発足し、「関西実行委員会」の準備会も2006年2月にはじまりました。


 「賀川豊彦生誕百年記念」のときも、兵庫県や神戸市、コープこうべや神戸YMCA、神戸女学院や関西学院、そしてイエス団系列の諸事業体等々、関係する多くの団体や個人が名を連ねた「関西実行委員会」がつくられ、多彩な記念事業がとりくまれましたが、今回はさらに規模を大きくして、「賀川豊彦献身100年記念事業関西実行委員会」の組織化がすすみつつあります。


 東京には本格的な「賀川豊彦記念・松沢資料館」が機能し、四国徳島には「鳴門市賀川豊彦記念館」が開館し、神戸にも「コープこうべ」の素晴らしい研修施設「協同学苑」に記念の資料室もできています。


 また、東京「本所賀川記念館」も、神戸と同じく地域に根ざした隣保事業が展開されており、新しい時代に仕える「賀川記念館」の事業展開が、日々継続されています。


 地元神戸の「賀川記念館」は、賀川没後三年目に建設されてすでに四三年が経ち、あの大震災を経験して建物も痛んできたため、「再建計画」が練られているときに、奇しくも「献身100年記念」の年を迎えることになりました。


 現在、「イエス団」関連事業所の大きなサポートのもとに、「再生プロジェクト」がつくられて、新しい夢―「賀川メモリアルホール(礼拝堂)」「アーカイブ」「友愛幼児園」「子どもミュージアム」「コミュニティー・サポートセンター」「臨床保育研究所」など―が語り合われています。


 ともあれこの小著『賀川豊彦の贈りもの・いのち輝いて』が、今回も読者のこころに届き、賀川豊彦を活かした「大きないのち」の世界に、共に生きることができるように願っています。あわせてこれが「賀川献身100年記念」の取り組みの上に、何かのお役に立つことができるなら、これに過ぎる喜びはありません。


 今後も各方面からの厳しい批判をお受けして、真理・真実の前での、自由で真剣な「出合いと対話」の醍醐味を、お互いにエンジョイできることを楽しみにしています。


  二〇〇七年正月

                         鳥 飼 慶 陽


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