スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第213回)

1

「六甲高山植物園」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


      賀川豊彦の著作―序文など

     わが蔵書棚より刊行順に並べる
 
            第213回


    加藤重著『我が妻恋し―賀川豊彦の妻・ハルの生涯』

  
 この作品もUPが遅れてしまいましたが、瀬戸内寂聴さんの推薦文の帯のつけられた加藤さんの好著は、199年3月に晩聲社より出ています。賀川ハルに焦点をあてたまとまった作品はまだ出ていなかったなか、見事な書き下ろしが登場しました。

 「賀川ハル史料集」も出揃って、ハル研究も若い人々によって進められていくことでしょう。

 ここでは、加藤さんの「まえがき」を取り出して置きます。


                   まえがき


 私は長年、キリスト教主義の学校・横浜共立学園の国語科の教師をしていました。定年後の平成三(一九九一)年に横浜共立学園は創立百二十周年を迎えるにあたって、学園史(『横浜共立学園百二十年の歩み』)をまとめることになり、私も編集委員のひとりとして執筆することになりました。

 ひと口に百二十年といっても、その歳月はやはり相当なもので、集められた資料は膨大でした。私は、多くの資料を読みながら、卒業生の多彩な活躍ぶりに感歎しました。このとき、大正期のベストセラー小説『死線を越えて』で有名な賀川豊彦の妻ハルが、昭和十八(一九四三)年に廃校になった共立女子神学校の卒業生であることを、初めて知ったのです。

 数年前から『同窓会報』に「一二○年史こぼれ話」を連載することになり、共立卒業生で社会的に活躍された方々を何人か紹介してきました。あるとき、賀川ハルについて書いてみようと考えました。私はそのとき、賀川ハルはどのようなかたであるかもまったく知らないで、資料を集めはじめたのです。

 それから一年七ヵ月が経ち、多くの資料が集まりました。資料を読み進むうちに、私はすっかり賀川ハルの凛とした生き方に魅せられてしまったのでした。賀川ハルは、自身では「はる、はる子、春、春子」と、時によりいろいろ名前を使いわけて書いています。また、夫の賀川豊彦も愛をこめて「春子」と書いていますが、小学校の成績表や名誉都民賞を受けたときに「ハル」と書かれておりましたので、ここでは「ハル」と統一して書きました。

 賀川ハルは、夫の賀川豊彦が身命を賭して入り込んだ神戸の貧民街にためらうことなく住み、貧しい人びとに尽くし、三人の子どもを育てながらキリスト教の伝道に励み、悩める人びとの相談を聞き、多くの著作を書き、女性の覚醒のために活動しました。

 この事実だけでもすごい人だと感歎するのに、それだけではありません。キリスト教伝道のために奔馬のような勢いで駆けめぐる賀川豊彦の陰にあって、ハルは賀川がつぎつぎと興す社会事業の意義をしっかりと理解し、経済面でも掌握して、賀川豊彦が存分に働けるようにきめ細かな配慮をしていました。

 なにしろ賀川豊彦の社会事業は、とてつもなく他方面にわたって展開されています。そのどれもが、賀川豊彦の著作物から得る印税と賀川を支援する人びとの浄財でまかなわれているのです。そのため賀川家の台所は常に火の車でした。

 ハルの協力なくしては賀川豊彦の事業の拡がりはなかったでしょう。事実、賀川豊彦は「春子は僕のためによう尽くしてくれた。ようやってくれた。もし春子がいなかったら、僕の仕事はできなかったかも知れないよ」と、親しくしていた三浦清一牧師にしみじみと述懐しています(『神はわが牧者』)。

 賀川ハルは病気がちの夫の看護に献身し、夫を心の底から愛し、信頼し、夫の力を信じたよき妻であると同時に、賀川豊彦にとっては志を同じくするすばらしいパートナーでした。賀川ハルについて何人かの方々が研究し紹介していますが、まだまだ少ないのです。そこで私を魅了してやまない賀川ハルの九十四年の生涯をたどってみることにしました。

 ところが、賀川ハルについて調べているうちに私はもうひとつの壁につきあたりまた。それは、今の人は「賀川豊彦」のことをなんにも知らないという現実でした。

 大正期に百万部以上も売れた超ベストセラー小説『死線を越えて』の作家「賀川豊彦」と言っても、若い人はきょとんとしています。そんなことってありましょうか!

 そういう私自身も今回賀川ハルを調べるなかで、賀川豊彦の偉大な業績に驚嘆しました。賀川豊彦は、私の理解を絶するほどの偉大なキリスト教伝道者であり、生涯に百五十冊以上の著作を出版した著述家であり、また詩人です。そしてさまざまな社会福祉事業を興したパイオニアでもあります。賀川豊彦の仕事はあまりにも広く大きくて、書きつくすことはできません。

 「日本の賀川」「世界の賀川」と言われ、二度もノーベル平和賞の候袖に上がった人です。神学生であった賀川豊彦は、肺結核で何度か死の淵をのぞきますが神の摂理でしょうか、そのたびに生きかえりました。二一歳のときに、命あるかぎり貧しい人びとに尽くそうと決意して神戸にある「葺合新川」という貧民街に移り住みました。以来七十二歳(数え年)までの五十年間、さまざまな分野を開拓者的精神で切り開いてきました。

 社会評論家の大宅壮一は賀川豊彦を偲んで次のように記しています。

 「明治、大正、昭和の三代を通じて、日本民族に最も大きな影響を与えた人物ベストーテンを選んだ場合、その中に必ず入るのは賀川豊彦である。ペストースリーに入るかもしれない。(中略)賀川豊彦は、その出発点であり、到達点である宗教の而はいうまでもなく、現代文化のあらゆる分野に、その影響力が及んでいる。大衆の生活に即した新しい政治運動、社会運動、組合運動、農民運動、協同組合運動など、およそ運動と名のつくものの大部分は、賀川豊彦に源を発していると云っても、決して云いすぎではない。(中略)
 近代日本を代表する人物として、自信と誇りをもって世界に推挙しうる一人をあげようと云うことになれば、私は少しもためらうことなく、賀川豊彦の名をあげるであろう。かつての日本に出たことはないし、今後も再生産不可能と思われる人物1それは賀川か彦先生である。                                                     (『神はわが牧者』)

 賀川豊彦の活動範囲は日本だけではありません。世界各国を駆けめぐって伝道し、平和をよびかけています。いまでは賀川豊彦の名前は外国のほうによく知られています。

 この、実に裾野の広い賀川豊彦の活動を、ハルは力強くサポートしつづけたのです。賀川豊彦とハルは、いつも大勢の人びとのあいだにあって、家庭的な団らんをもつ余裕もなかったのではないでしょうか。でも二人の心は強く結ばれていました。賀川豊彦はハルにこんな詩を贈っています。


          妻恋歌

      わが妻恋しいと恋し
      三十九年の泥道を
      ともにふみきし妻恋し
      工場街の裏道に
      貧民窟の街頭に
      共に祈りし妻恋し
      憲兵隊の裏門に
      未決監の窓口に
      泣きもしないでたたずみし
      わが妻恋しいと恋し
      千万金を手にしつつ
      じゅぱん そで
      儒絆の袖口つくろいて
      人に施す妻恋し
      財布の底をはたきつつ
      書物数えて売りに行く
      無口な強き妻恋し
      あられに霜に雷鳴に
      傘もささずに走り行く
      強きわが妻いと恋し
      緑の髪は白くなり
      肌には深き皺よせて
      若きかんばせ失せゆけど
      霊のわが妻いと恋し
      めしいの夫の手を引きて
      みめぐみ数える妻恋し

         一九五〇・十二・六
         これだけが 私の あなたへの クリスマスプレゼントです

      主にある春子様


 深い敬愛の情が込められているこの詩は、賀川豊彦が六十二歳のときアメリカ伝道中に創ったものです。賀川豊彦はこの十年後の一九六〇年四月二三日、七ー歳九ヵ月で永眠しました。相思相愛であったハルは長寿を全うして、九十四歳で生涯を終えています。

 明治・大正・昭和という日本の現代史に偉大な足跡を残しか賀川豊彦を支えつづけた賀川ハルとは、どんな人だったのでしょうか。


スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

keiyousan

Author:keiyousan
このブログのほかに同時進行のブログもうまれ全体を検索できる「鳥飼慶陽著作ブログ公開リスト」http://d.hatena.ne.jp/keiyousan+toritori/ も作ってみました。ひとり遊びデス。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。