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連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第215回)

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「夏の甲子園」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


       賀川豊彦の著作―序文など
     
        わが蔵書棚より刊行順に並べる
 
             第215回


       浜田直也著『賀川豊彦と孫文』  

 2012年1月、神戸新聞総合出版センターより刊行された浜田直也著『賀川豊彦と孫文』をもって、「賀川豊彦」ぶらり散歩―作品の序文など」(再掲)は、ここまでとします。

 ここでは加山氏の「はじめに」と著者の「自序」並びに「あとがき」を取り出して置きます。



                    はじめに

                          加山 久夫

 賀川豊彦(一八八八~一九六〇)は、神戸貧民街での救霊・救貧活動から始まり、労働運動、農民運動、生協運動、普選運動、平和運動など実にさまざまの社会運動を切り拓いた。また、大正時代のベストセラーとなった自伝小説『死線を越えて』をはじめ、その生涯において三〇〇冊を越える著作を執筆した思想家でもあった。世界的に日本を代表する著名人であり、三度ノーベル平和賞候補とされたのみならず、日本人初のノーベル文学賞候補にも推挙されている。しかし、賀川は没後、急速に忘れられ、今日ではその名を知る人は少ない。

 だが、大正から昭和にかけて賀川が先駆的に取り組んだこれら多方面での社会運動は、いずれも防貧運動であり、貧困問題や貧富格差の問題が顕在化し、それが現代資本主義社会の構造的問題としてますます深刻化しつつある今日、賀川の思想や実践や志はいま改めて見直されつつあるといえよう。歴史が彼を呼び戻しているのである。その意味で、新たな視野からの賀川研究は緒についたばかりであり、本書もまさしくその一つである。これまで賀川は欧米との関係で語られることが多かったが、浜田直也氏は賀川を中国との関わりのなかで捉える研究を積み重ねてこられた点でユニークな貢献をしている。賀川と中国との関係については知られてはいても、言葉の壁があり、これまで氏のような実証的研究ができなかったのである。

 賀川豊彦は十数回にわたりキリスト教伝道や講演のため中国を訪れ、孫文、魯迅、陳独秀、誠静怡、薛仙舟など、中国の近現代史において重要な役割を果たした指導者らとも交友関係をもった。彼はまた、訪中時にスラムを訪れ、調査するとともに、極貧のなかに苦しむ人々を解放するための提言をしている。つまり、協同組合(合作社)による中国改造論である。日本の軍隊が中国の奥深くに侵略し、多大の惨禍をもたらしている現実を目のあたりにするようになると、賀川はその著作や講演で中国の人々に謝罪した。その謝罪行
為のために、後に渋谷憲兵隊に検束されることになるのであるが。

 賀川と中国に注目する著者は、賀川の著作を読むうえでも、新たな光を与えてくれている。たとえば、賀川の小説『鳳凰は呼吸する』中の中心人物として内山完造や孫文が登場していることを読み解いてくれる。また、『死線を越えて』の続々篇『壁の声きく時』や「身辺雑記」などにおける記述に賀川の貴重な歴史的証言を読み取ることができることにもわれわれの注意を喚起する。

 本書は論文集であり、類似のテーマの論文が幾つか収められているので、当然重複が散見される。しかし、別の見方をすれば、いわば「重ね絵」のように、さまざまの方向からの論述は内容に立体感をあたえているとも言えよう。

 二〇一一~一二年は辛亥革命からI〇〇年の記念すべき年であり、その意味でも、本書はまことに時宜に叶った出版となった。多くの読者に読んでいただきたいとこころから希っている。

                  (賀川豊彦記念松沢資料館館長・明治学院大学名誉教授)



                    自 序


 本書は、「賀川豊彦と近代中国」を主題とした論文集である。賀川豊彦(一八八八~一九六〇年)は、大正から昭和初期にかけて、多彩な社会的業績を残した基督教社会運動家である。彼が手掛けて成果をあげた活動のなかでも、全国の生活協同組合は、彼の名を創業の父として語り継いできた。彼は、起業家としても時代の先を見抜き、後世の社会に計り知れない影響をあたえているのである。

 今、若者で賀川豊彦の名前を知るものは少ないであろう。二〇世紀前半、国内外において彼の名声は世に轟いていた。この時期、賀川は、欧米で「カガワ、ガンジー、シュヴァイツァー」と並び評され、“日本の聖人”として崇められていたという。医師日野原重明氏の言によると、トヨヒコ・カガワという名前は二〇ヶ国語ちかい言葉に訳されたいろいろな書籍によってよく知られ、戦前のアメリカでは多くの私淑者をもっていたということである。

 賀川の名を世に知らしめたのは、神戸市葺合区(現、中央区)に嘗て存在した貧民窟「スラム」での貧民救済活動による。賀川は、神戸神学校の学生であった一九〇九年一二月二四日に、病身を顧みずスラムの五軒長屋の五畳敷き部屋に地域の人と共に住み、伝道活動と救済活動に身を粉にして働いた。結果、賀川のスラムでの献身的な活動は、瞬く間に世に知られ、当時の『大阪朝日新聞』、『大阪毎日新聞』、『神戸新聞』の報じるところとなり、彼は“貧民窟の聖者”と評された。また、彼がスラムでの体験を取り入れて描いた自伝『死線を越えて』は、大正時代の最大のベストセラーとなった。

 これまでの賀川豊彦に関する日本・欧米での研究の成果は、国内外で膨大な数量に達している。彼の著作・関連資料が多国語に翻訳され、彼の業績は多角的に考察され人物研究として出版されている。ただ、賀川と中国に関する事蹟は、その重要性は認識されてきたものの何故か見落されてきた。彼は、一九四〇年八月二五日に、東京世田谷区の松沢教会での礼拝直後に、渋谷憲兵隊に拘引され反戦容疑で取調べを受け、巣鴨拘置所に収監されたが、時の外務大臣松岡洋右の要請により釈放され、その後東京での活動を中断して香川県豊島に引き移り監禁状態におかれている。これからしても、彼の日中戦争に対する軍部批判、戦争回避の言動が官権の放置できないものであったことが窺われるのである。

 賀川と中国との拘わりは、実は神戸のスラムでの活動時代の一九一三年の孫文との出会いに始まっていた。孫文(一八六六~一九二五年)は、中国の偉大な革命家、国父と呼ばれる民国革命の指導者である。孫文は、辛亥革命(一九一一年)に成功した後、袁世凱に臨時大総統の役職を移譲し、一九一三年に全国鉄道督弁(国鉄総裁に当たる)として訪日している。その際、孫文は神戸を訪問している。その歓迎の群衆のなかに賀川豊彦がいたのである。賀川は、この時の感動を一九二〇年に上海で孫文と会談した思い出とともに記録している。彼は、よほど孫文から感化を受けたのか、弟子の武内勝に、神戸での仕事が一段落したならば中国で活勤したいと語ったという。

 作家大江健三郎は、賀川豊彦生誕百年の講演「信仰を持たない者の側から何ができるか」において、『賀川豊彦全集』を一瞥しての見解として、彼は中国人民の立場に立つことがなかったと結論された。だが、この大江氏の主張は、閲覧資料の制約からくる誤認であり正鵠を得たものとは言えない。賀川が中国人民の立場に立つことができた人物であることは、全集に収録されなかった第一次資料を調査・分析することによって明白になってくる。

 賀川豊彦は、吉野作造(一八七八~一九三三年の推薦によって、一九二○年八月に上海日本人YMCΛの夏期講座の講帥として中国に渡航した。その際、神戸での労働運動の協力者の今井嘉幸(一八七八~一九五一年)の紹介状によって、孫文と上海のフランス租界にあった邸宅で会談する機会をもっている。周知のように、吉野作造と今井嘉幸は、大正デモクラシーの渦中にあって、吉野は「民本主義」を提唱し、今井は「普通選挙法」の旗手として活躍している。

 たった一度の会見に終わったが、賀川は、孫文から、日中両政府が当面していた問題に対して、とりわけ日本軍部の大陸政策に関して辛辣に批判されている。孫文は、初対面にも拘わらず、賀川に対して真意を披瀝しているのである。そのなかで、孫文は、おそらくは感情を昂ぶらせて一九一三年の前首相の桂太郎との会談で出た密約談を吐露してしまったのである。しかし、帰国後、賀川は公式の場でこの桂太郎との密約を語ることはなかった。
 
 賀川は、孫文に日本軍国主義の中国侵略を叱責され、日本軍の蛮行に対して恥じ入り、中国の人民に慙愧の念を懐いた。彼は彼なりの立場で、日本の軍国主義と対峙するようになる。米沢和一郎氏によってその存在が露になった、賀川の著書『愛の科学』の中国語版(一九三四年刊)に書き添えられた「新序」がある(「賀川豊彦の戦時下における侵略謝罪の意義」『賀川豊彦研究』三一)。そこには、第一次上海事変(一九三二年)後の上海を視察して書かれた、彼の日本の軍国主義に対する批判と、中国人民への謝罪の言葉で埋め尽くされている。

 また、賀川は、反共産主義の立場から中国に建設的な未来社会を構築する方策として、協同組合を社会の生産と消費の基礎単位とする「組合国家論」への発言を繰り返している。故森静朗氏は、賀川と中国の協同組合(合作社)運勣との関連について、『中国復興と日本』(未定稿、一九四四年)の記載に沿って略述し、それが孫交の「民生主義」に受容された協同組合思想に適ったものであったと指摘している(「賀川豊彦と中国」『賀川豊彦研究』三三)。

 本書は、賀川豊彦と中国というテーマを設定し、全体を総論、論考、附論、雑説に分け、これまでに学界に発表した論文、講演録等を纏めその全体像を浮き彫りにしようとしたものである。ただ、論文集という性格から、論旨と資料が重複するところがあることは避けられない。また附論とした清末の革命家の康有為(一八五八~一九二七年)の論考は、私の中国近代史研究の礎であることから、賀川研究とは異なる論考であるが日中交流史の観点から収録することにした。

 本書は、これまでの賀川研究の視野になかった「賀川豊彦と近代中国」を主題とした論文集である。なにぶん、先行研究の乏しい分野であり、また能力的限界から、資料の細部にわたる考察に漏れ落ちが生じているであろう。しかし、賀川豊彦が孫丈と出会い、会談し、日中戦争時下に中国人民の立場になって行動したことは忘却されてはならないことである。後世の賀川研究の中国分野に対する敲き台の役割を担えたならば幸せである。



               あとがき―私の賀川研究史抄


 私の歴史学研究は、父から受け継いだものが多い。医師であった彼が、私に語ってくれた日中戦争の悲話からは、中国人民に対する謝罪の気持ち、十分な医療を受けることなく死んでいった日本兵への憐憫の情が伝わってきた。また、小中学校の教師から聞かされた戦争体験も、哀しいものであった。いつしか、私の心の原風景には中国の映像が映しだされることになった。

 私は、佛教大学文学部史学科に進学し東洋史を専攻した。佛教大学の東洋史の教授陣は、私のような凡才には勿体無いような錚々たる先生方であった。なかでも森鹿三先生、狭間直樹先生、清水稔先生には、東洋史の基礎を教えていただいた。その後、大谷大学の大学院に進み、碩学の野上俊静、佐伯富先生から、東洋史のみならず学問観まで教えていただいた。いま、学恩をいただいた先生の多くが鬼籍に入られ、不肖の弟子は慙愧の念にかられている。

 人学院終了後、父が学部在学中に死去したことによる経済的理由から学究生活への道は選べなかった。一旦、中国書籍の販売と学術雑誌の出版を手掛けている某出版社に入社が内定したが、狭間直樹先生から京都大学人文科学研究所の中国近代史の研究班参加のお言葉をいただき、再び、私の向学心は学問の世界に向かい、中学、高校の講師をしながら中国史研究を続けることになる。

 当時、私を除いて、京祁大学人丈科学研究所には新進気鋭の才能あふれる若手研究者が揃っていた、中国史の学術研究にとって至高の場であった。研究発表の責務を考えると、私には荷が重い場所でもあった。同世代だった研究班員は、現在順風満帆に業績を残され東洋史の大家になられ、各大学で教鞭をとられ束洋史学界の第一線で活躍しておられる。

 私は、一九八〇年から奈良育英高校の教員として三十数年に及ぶ教員生活を過ごした。職場では、同僚にめぐまれ、優しい生徒に出会うことができた。私は、同僚の理解と生徒たちの励ましを得て、教育活動と学問研鑽に専念することができた。私を思慕してくれた生徒たちは、心の糧となっている。これまでに、寸暇を惜しんで書き溜めた論文三十余篇は学術雑誌に発表した。それらは、『中国史の研究』(朋友書店、二〇〇六年)として発刊した。

 私の研究業績にあって、「賀川豊彦と中国」の研究は、先駆者的なものであり国内外学界から反響を得た。そもそも、私の賀川研究は中国史の分野から質的に距離があり、はじめ研究テーマに設定するつもりはなかった。それが、何時の間にか賀川豊彦の研究家と評価されるようになった。さらに、上海華中師範大学の劉家峰教授は、「孫文と賀川豊彦」を中文訳されて、中国の学術雑誌に紹介して下さった。

 また、国内では、明治学院入学で開催される賀川豊彦学会での発表、佛教入学文学部での発表、『賀川豊彦研究』への論文掲載、鳴門市の賀川記念館での講演、神戸新聞カルチャーセンター講座講師、旧神戸賀川記念館賀川講座講師、など思いもよらぬ賞賛を得た。

 私が、賀川研究に着目した学問的動機は、偶々教室から始まったのである。私が賀川に関心をもつようになるのは、二十年程前である。ある日、私か担任をしていた女子生徒が武藤富男の『評伝賀川豊彦』について尋ねてきた。当時、私は彼女の質問に答えることができなかった。私は、賀川豊彦を調べて、その生涯に感動を懐くようになる。それ以後、賀川は、私の教員生活の理想になった。私が、校務と授業の合間の僅かな時間を使って、一気に書き上げた論文には、元来の怠惰と研究条件の制限からくる不備が付き纏った。

 いま、「賀川豊彦と孫文」研究の深淵な歴史的意義を鑑みる時、私の凡庸な学才をもってしては、この書は到底完成され得るようなものではなかった。これを成し得たのは、恩師挟間直樹先生はもとより、旧神戸賀川記念館長村山盛嗣先生、元イエス団理事長今井鎮雄先生、元イエスの友の会会長緒方彰先生、賀川研究家鳥飼慶陽先生、神戸イエス団教会員の方々、東京の賀川豊彦記念・松沢資料館の加山久夫館長、杉浦秀典研究員、奈良育英学園の同僚・生徒等多数の方々の後押しがあってはじめてできたものである。とりわけ、挟間先生は、私の蝸牛の歩みのような賀川研究を、常々心に留めて下さり、励まし導いて下さった。

 最後に、神戸新聞総合出版センター出版部長・岡容子氏には、出版にあたって貴重な助言を頂くことができた。ここに改めてお礼を申しあげる。私は、これまでにお世話になった方々に対し、感謝をこめてこの論文集を上梓する。

  二〇一一年一一月
                               著 者
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