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賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(7)

壮行記念写真

上の写真は「オフィシャルサイト」に掲載されたものであるが、今回あらためてスキャンして収めて置く。

img424.jpg


  「大正七年三月賀川先生プリンストン大学留学のため新川尻海岸にて記念撮影」

 「玉手箱」の中には、賀川豊彦・ハル夫妻から武内勝に宛てた120通ほどの手紙類(封書と葉書)をはじめ、長期間にわたる武内の手帳などに加えて、貴重な写真類も多く含まれている。

 今回はその古いアルバムの中から、関係者の間ではひろく知られている一枚の写真をご覧頂く。沢山の子供たちに囲まれ、豊彦とハルが真ん中に並んで座って撮られているので、二人の結婚(大正二年五月)の後ではないかということは誰でも想像はつく。しかしこのような場面で正面に二人並んで写されるのには、何か特別の意味合いがありはしないかというおもいは残っていた。

 ちなみに、賀川豊彦生誕百年記念の折に刊行されたあの豪華な『賀川豊彦写真集』(1988年、東京堂出版)にも、当然この一枚は収まっている。それを見ると、103頁の写真番号223の説明には「豊彦とハルはよくスラムの子供達を郊外に連れ出した」とだけあって、撮影の時期と場所については何も触れられていない。

 ところがこの度の「第二玉手箱」所蔵アルバム(資料番号17-2)には、貼られた写真の上に下記のメモが記されていて、時期と場所に加えて、撮影の意図も分かる簡潔なことばが記されていた。もちろん武内の筆跡である。

 「大正三年七月賀川先生プリンストン大学入学のため新川尻海岸にて記念撮影」

 この説明の通り大正三年七月の写真とすれば、豊彦とハルは新婚まだ一年少々が過ぎ、翌月二日には、豊彦は留学のため神戸港から丹波丸で出帆するわけで、武内の記す如くその「記念撮影」「壮行記念写真」ということになり、この写真の持つ「特別の意味合い」が了解できた。
 豊彦が米国に旅立ってほぼ一月後(九月五日)ハルも神戸を発って、横浜の共立女子神学校で学ぶことになるのであるから、まさにこれは「賀川夫妻の壮行記念写真」ということである。

 この後、賀川が再び新川に戻るまでの期間、一切を任せられイエス団の留守をまもった武内勝ら「青年たちによる共産生活」の実行は、武内自ら「私の生涯を通じまして、一番愉快な時でありました」と回顧するように、まさに武内勝らしい生活が続くのである。

 なお、この写真の左下角には、小さな紙が張られ、名前が書かれている。
 少し説明を付しておくと、もちろん前列中央の二人は「賀川豊彦と春子夫人」。左端大人は「吉岡」。前列右端は「小田佳男」。その上は「伊藤平次」。最上段の学生は「平野」。その前は「徳憲義」。

 武内勝の口述記録『賀川豊彦とそのボランティア』によれば、伊藤、徳の二人は関西学院大学の神学生たちで、吉岡、平野も日曜学校や路傍説教に加わった青年たちである。(2009年5月12日鳥飼記す)


 このアルバム写真は、すでに武内祐一氏に返却済みであるが、神戸文学館での展示のあとに、接写した写真は神戸のミュージアムにあって、上記のコメントを添えて展示室に公開されている。
 また、「賀川豊彦献身100年記念出版」の武内勝口述・村山盛嗣編集『賀川豊彦とボランティア(新版)』(神戸新聞総合出版センター)の45頁に「大正3(1914)年7月、プリンストン大学留学前の記念写真。子供たち、関西学院のボランティアと新川尻海岸にて(前列中央が賀川夫妻)」という説明が施された。(2014年1月20日補記)
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