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賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(8)

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    武内勝の見た「賀川先生の生涯」

 この資料(「第二玉手箱」資料番号3-3)は、藁半紙の領収書の裏4枚に記されている。タイトルはなく、横書きのメモである。執筆年代は不明であるが、文面からみて恐らく戦後早々のものであろう。書き出しには戦後の「予言時代」を挙げているが、本文には其の項目もない。ここでは、文章の書き出しを参考にして「武内勝の見た『賀川先生の生涯』というタイトルにしておく。

 なお、この原資料は神戸文学館での展示のあとに賀川記念館のミュージアムに移されていて、いま手元にはないので、とりあえずここでは書き出し部分のコピーがあるので、それを収めて置く。(2009年5月9日鳥飼記す。2014年1月21日補記)

 (追記 本日この原資料がミュージアムより返却を受けたので、早速それと以下の文章と突き合わせてみたところ、いくつかの補正箇所があった。草稿自体が下書きのメモの段階のものであることを念頭にして一読いただきたい。2014年1月24日記す)


               ♯     ♯     ♯


 賀川先生の生涯を、便宜上四期に分けて考えて見たい。
 一は準備時代(試練の時代)、二は活動時代(全盛時代)、三は沈黙時代、四は予言時代とすることが出来る。
 準備時代は、大正六年プリンストン大学を卒業し日本に帰られるまで(7年6ヶ月、数え30才)である。活動時代は、昭和十五年迄であり、それから20年終戦までが沈黙時代であって、以後は予言時代であった。

   一 準備時代(試練時代)

 勉強

 毎朝五時に起床して読書した。一日に一冊56百頁ある洋書を読むので、「若し一冊読めないときは、何か悪いことをした感じがする」と言った。勉強の出来る者がしないのは犯罪であると心得ていた。
 学校に通学していたが「学校の先生より僕の方がよく知っている」と言われる。「何故ですか」と聞くと、「先生より僕の方が多く本を読んでいるからである」と言われた。
 プリンストン大学に在学していた時も、「日本で習ったことばかりで詰まらないから、毎日顕微鏡をのぞいて、生物学の研究をしています」との通信があった。「米人の学友が、日本には君の様な勝れた人物がいるのであれば、日本に行く必要がないと言った」それ程よく勉強された。

 (4枚のうち1枚は「準備時代の初めに入れる」と記されているので、それをここに入れる)

 聖者の生活 聖書の実行者

 二枚の衣を持たない     午前5時に起床して読書
 麦飯に焼味噌        神学校に通学
 無抵抗主義者        子供の友
 求むる者を拒まない     路傍説教
 家に施錠がない       行路病者の収容保護 
 鬼の婆さんの盗みを許した。 
 金があってではない。煙突掃除をして儲けて来ての人助けであった。余ったら助けるのではない。
 十銭の下駄 十銭の足袋 
 与えるもののないときは祈った。自分が欲しいからではない。与えるために求めるのであった。
 尚、同情の涙で目を真っ赤に顔をぬらしていた。
 「死線を越えて」の小説其の他の印税、原稿料、講演料等により多くの収入のあったとき、その一部の15000で財団法人イエス団を組織した。他は失業者其の他の救済に使用したのであった。

 先生の行為は「山上の垂訓」を其のまま実行されていたと思う。
 先生は「愛の科学」に「愛は私の一切である」と記していられる。
 フランシスの血を受け継いでいた。奉仕に努力した。

 行路病者を収容して大小便までとって面倒を見るのは普通では出来ない。
 社会には老幼、病者、身体傷害者、前科者等、働く事が出来ず、生活に困難する者が沢山ある。此れ等の人に対し、元気なものが奉仕をするのは当然と考えていた。

 貧しい者の友
 大阪で事業を始める。日本に貧乏人がなくなれば支那に行く。
 
  二 活動時代

 時は来る。希望をもっていた。30才になったら立つ。
 明治四十三年、幸徳秋水の死刑になったとき、「幸徳秋水は死刑になっても、十五年後には日本にも社会主義の許される時代が来る。其の時は旗を挙げて起たなければならぬ」と言われた。
 当局の弾圧がきついので、世間では社会の社の字も使用しなかった時に、先生は其の準備をしていた(知識に於いて)。
 浜田君が「先生と伊藤博文とどちらが偉いか」と質問したとき、先生は「僕の方が偉い」と言われた。「伊藤と同じ位生存すれば、伊藤より大きな事業を行なう」。実に自信満々たるものであった。

 新聞を発行する

 米国からの通信で「僕は日本に帰ったら新聞を発行する。そのとき君は原稿の記けるように勉強して置きなさい」

 キリストの偉大を再発見

 米国行には二つの目的があった。一つは、十万円金を貰って来て、新川に施療病院を建てること。次は、金が出来なければ博士の学位をとって来る。然し、大正六年帰朝の前に、はがきで「私は米国にもキリスト以上のものはない事を発見して、日本に帰ります」との通信を受けた。 
キリストの愛で日本を動かし、日本を救うとの決心であった。

 使徒行伝に一頁を加える

 「使徒行伝は二十八章で終わりになっているが、これはその続きが出来なければならぬものである。誰が二十八章に続くのか。我々がそれを綴らねばならぬ」と、先生の中には、実に大伝道心が燃えていたのである。
此の様にして、先生の大伝道が150冊の著述、各種の事業として行なわれたのである。

  三 活動時代(全盛期時代)

 防貧運動

 新川で貧しい人達をいくら助けても、次から次へと労働階級から貧困者に落ちて来るのでは助けきれない。「大阪湾の海水は、おたま杓子ではかえきれない」と言って、労働階級から貧民に落ちないために、労働階級で団結し、組織の力によって防貧すべきことを主張し、労働運動に参加し、之を指導し、大正十年には川崎、三菱の大ストライキの指導者となった。

 続いて農民組合、生協運動等、防貧運動のひとつとして考えていられたのである。
 先生は、組織の力で防貧の問題は解決がつくと考えていた。

 不良住宅の改良については、国の力で行なうことを主張し、「死線を越えて」の一部を切り抜きにより、これを政府は議会での説明材料として予算案を通過させた。

 暴力革命から日本を救う秘訣

 フランス革命を起こしても、英国は之を避けた。それはウエスレーやブース大将の宗教運動が盛んで、その効果によったものである。日本も宗教運動を盛んにすれば、国民の道徳は高まり、道徳が高まれば、血や火を見る暴力革命は避け得られる。伝道を盛んにし百万人運動を起こした。
 かかる意味からも大伝道の必要は迫っていた。
 先生は共産党から殺害を受ける覚悟の上であった。

 著述、講演、原稿

 面接来客が多くて専任の係りを置いた。
 行政 労働問題 小宮山 婦人問題 植村秘書
 社会事業の組織化 
 財団法人イエス団友愛救済所

  四 沈黙時代

 満州事変から支那事変となり、戦争が漸次拡大されるに従って、先生の原稿は書けなくなり、講演する事も禁じられたのであって、一時は四国の豊島にのがれたこともある。終戦まで全く沈黙であった。

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