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賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(13)



  「福祉の灯:兵庫県社会事業先覚者伝」武内 勝

 標記「福祉の灯:兵庫県社会事業先覚者伝」(兵庫県社会福祉協議会編、昭和46年)の中に「武内勝」の記述がある(382~388頁)。
 執筆者を確かめていないが、参考までに打ち出しておきたい。ここには武内の顔写真の他に2枚(彼の仕事場であった「東部労働紹介所」と「神戸市最初の職業紹介所内部」)の写真が収められている。

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 文中にあるように「武内の人や事業を語ることは容易ではない。とり立ててかれのおこした事業や著作で自らの思想や信仰をのべたものもない」といわれる。

 「武内勝」の相方である雪夫人(明治34年生まれ。大正9年5月~11年12月まで神戸市立中央職業紹介所、昭和9年4月~20年3月まで西宮一麦保育園園長補佐、昭和33年4月~11月まで神視保育園園長、昭和38年4月~天隣乳児保育園園長・・)の貴重な証言を交えて執筆されており、大変興味深い記述になっている。一度わたしも、生前の雪さんのお話を、1980年2月29日に親しく伺う機会があった。

 所蔵資料の中に、雪さんの写真も含まれていたので、武内勝氏没後の昭和46年、天隣乳児保育園のクリスマス・生活発表会における写真並びに撮影日不詳の写真であるが、雪さんの少しお若い頃の一枚もここに収めさせて頂く。

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 なお、1989年に刊行されている田代国次郎・菊池正治編著「日本社会福祉人物史(下)」第4編「現代社会福祉人物史」の中に「武内勝」の項があるようであるが、これは未確認である。

 次の写真は、今回の「武内氏所蔵資料」のもので、武内氏が所長を務めた「神戸市立中央職業紹介所」の全景と紹介所の内部で、二枚とも「郵便はがき」として作製されたものである。

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 『福祉の灯』には、冒頭に「兵庫県社会事業の変遷」が記され、「賀川豊彦」はもちろん「寺島ノブへ」「城ノブ」「遊佐敏彦」「木村義吉」「那須善治と田中俊介」「三浦清一・光子」など、イエス団と深い関係の有る人物の貴重な評伝が収められている。

 今回掲載するものは、2009年12月に刊行された『賀川豊彦とボランティア』(神戸新聞総合出版センター)の「付録」として収めることができた。(2009年6月1日鳥飼記す。2014年1月26日補記)


      #        #       #

 
           武内  勝

 「その頃から多くの青年が栄一のところに集まるようになった。最初に来た青年は竹田という善良な青年であった。この青年に導かれたのは五月雨のふっている時分であった。(中略)秋の立つころ、竹田がまづ第一に来た。頭を丸坊主に刈って、まるまると肥えた竹田は丈の短い法被(はっぴ)を着たまま、説教を聞きに来るようになった。彼は小さいときに日曜学校へ行ったとかで、よくキリスト教を理解していた。」(『死線を越えて』下巻より)
 
 若き日の賀川豊彦はかれと武内勝との人生における出会いを、このように描いている。栄一は賀川であり、竹田は武内のことである。ことに武内の風采の描写は語りえて妙である。その頃というのは賀川が新川貧民窟に入って一年近い明治四十三年の夏のおわりと思われる。賀川にとっては悲惨で残酷で、それまで想像もしたこともない人々の生活にもなれ、貧民窟のなかにも多くの友だちもでき、伝道や救済のしごともやっと目途がつきはじめた頃であったろう。

 もともと賀川が武内たちを導くことになったのは、当時神戸の町で易者をしていた勝の父から「是非キリスト教のバイブルを青年たちに教えてくれ」と依頼されたからであったが、まだ若年で無名の賀川をわが子の師としてえらんだ眼識はなみなものではないといえる。灸に長じ、九州など遠方からききつけて治療をうけにくるものもあり、ときに癩患者などを自分の家につれて来たりしたが、ほとんど無料で世話をしたという。
 
 こうした貝釦工場などの青年労働者たちが集まることは、それまでの貧民たちとは社会的な意味では異なったものであり、そこから賀川にとっても労働問題という、あらたな問題ととりくみことになったのである。

 それよりも賀川と武内にとっての、この出会いは、二十二歳と十八歳という二人の若者に、神の導きともいうべき生涯の師弟、「最もよき協力者」とのちにいわれた二人の交わりがはじまったことであった。

 武内はそれ以来、賀川のかげのように終生イエス団を守り育み、伝道と社会事業にその一身を変わらぬ誠実をこめて捧げたのである。

 武内は明治二十五年(一八九二)の九月、岡山県邑久郡長船町に生まれた。生家は長男が近衛兵にとられたというから中農以上であることはたしかだが、父が鉱山事業に手を出して失敗し家、土地を手離し、家族を捨てて、家出したあと、当時の高等小学校を出ただけの十七歳の勝は母、弟三人を伴い故郷を捨て大阪に出た。

 しかし、縁故も技能ももたない少年の勝には満足な職などあるはずはなく、昼はこども相手の「おきびちゃん」売り、夜は「のみとり粉」売りの必死の昼夜にわたる行商生活も母と弟三人との五人の生活は容易でなく貧窮のどん底に、おかゆがすすれず飢えを訴える幼い弟たちに、ひと知れず泣いたという。ひとにすすめられ一家は神戸に来たものの三度の食事にもことかく日もすくなくなかった貧しさは変わらなかった。

 やがて、琺瑯工場で働くようになり、器用な勝少年はすぐになれ、ようやく一家は“おかゆ”が満足にすすれる境遇になり、さらに利発な勝自分で仲間たちと貝釦工場をはじめ、かれの父もふたたび家族とくらすようになった。

 その頃はじめられたイエス団の早朝学校(旧制中学程度、年表では「救霊団実業学校」とあり)では武田のことを「善良で利発な青年なので賀川はこれに望みを託した」(『太陽を射るもの』賀川の項)という。
 
 イエス団の救霊事業や夜間の路傍伝道にも武内は賀川をたすけて熱心にはげみ、しだいにその中心になっていった。賀川の渡米にあたっては武内とその家族がイエス団に移り住んだ。

 「先生(賀川)不在中、貧民窟の伝道を続けたのは、武内勝と青年労働者達でありました。全部で十人の青年達は初代教会の使徒達のような協同生活を始め、誰一人不平を言う者も口論する者もありませんでした。」(田中芳三『神はわが牧者抄』より)というまでになった。

 また、賀川の帰国後はじめた授産事業(歯ブラシ工場)では、その準備、機械の買入、技術の習得、作業などに賀川の指示をうけ、その中心となってつとめた。授産事業は結局不成功におわったが、その後は遊佐敏彦の生田川口入所の事業に従い、イエス団の教会に通った。

 そしてこの頃、賀川の世話で現在の雪夫人と結婚した。ふたりは南紀勝浦で見合いし、その後信仰にもえていた夫人は自分の目で武内をたしかめるため、家族の反対をおしきって木の本の家を離れて来神した。

 「おまえは何のために来たのか」
 挨拶にいったかの女に、いきなり賀川がいかめしい顔付きできいた。かの女は知っているのにと思ったが黙っているわけにいかないので、来神の目的をこたえると、
 「覚悟はできているか」
 と賀川は重ねていう。父のような温厚な遊佐にくらべて、なんとこわいひとだとかの女は思ったという。壮年の賀川の意気さかんなようすが見えるようだ。聖書学校で勉強したいというかの女に、賀川は言下に「武内学校におれば充分だ」といったという。
 
 武内の結婚についての賀川の奔走は、かれの米国留学中のことなども考えていたのかも知れない。賀川の小説『一粒の麦』の主人公嘉吉は武内にヒントをえたのだといわれている。

 結婚後は二人は労働紹介所の二階の八畳と六畳の一間に新婚の生活をはじめたが、一方には職員やその他職を求めて訪れた宿のない人たちの住まいとして、つねに多数の、ときには二〇人ぐらいも泊まりこんだ。

 武内はひとを差別せず、宿や職がなく困っているものと見れば、仕事や職の見つかるまで親身に誰でもそこへとめ世話をした。

 大正九年、生田川口入所は公営となり、神戸市中央職業紹介所となり、武内も神戸市職員として採用され、中央職業紹介所に勤務することになった。
 賀川から職業紹介所か生協(大正九、神戸購買組合創立)か、いずれかを選べといわれた武内は即座に月給では半ばに近い紹介所をえらんだとおいう話は、おそらくこのときのことであったろう。
 
 当時の紹介所の事業はいまの労働行政とちがい、行政のうえでも社会事業の一分野としてあつかわれ、事実まえにのべたように、職も宿もない日雇労働者たちの世話が多かったのである。武内はそれを天職として自らのぞんでとったのであろう。

 かれは大正十一年には、書記に昇進し、東部労働紹介所兼西部労働紹介所長となった。これは口入所設立以来の遊佐が東京に転じたあとをついだものであろう。

 つづいて昭和十三年、職業紹介所事業が国営に移管となるや葺合労働紹介所長となり、戦時中は勤労署とよばれた時代をへて、昭和二十六年、神戸公共職業安定所長の職を退職するまで、約三十数年にわたり一貫して職業行政に従事することとなった。
 
 毎日、朝は二つの弁当をもって家を出ると昼間は労働紹介所の仕事を、夜はイエス団へというのが当時の日課であったと夫人は語っている。

 この頃、賀川は労働運動からさらに農民運動へと東奔西走に日がつづくことになり、ことに関東大震災の救援を機に、賀川は家族をあげて東京に移り住んだので、そのあとには武内の家族がはいり、貧民窟でのイエス団の伝道と社会事業活動はしぜんに武内の肩にかかっていたのであろう。

 かれは寝食を忘れて賀川の留守を忠実に守ったのである。一日として路傍伝道をかかさず、行路病者の世話をし、また祈ったという。それは武内にとっては水の流れるように賀川の教えを守っただけである。

 だから戦時中の賀川が危険人物視される時代にあっても、特高警察に尊敬する人物はときかれて、ためらいなしに賀川先生だと即座にこたえたという。
 
 武内の人や事業を語ることは容易ではない。とり立ててかれのおこした事業や著作で自らの思想や信仰をのべたものもない。

 しかし、かれはその師賀川の教えのすべてをもっとも忠実に寸分たがえず実践した唯ひとりの人間といえるだろう。また、あくまで賀川の事業を守ることに、文字通りその生涯をささげたといってよい。「五十年を一日の如く仕えた」(岸部勘次郎牧師)というのがもっともかれを正確につたえることばかも知れない。またいう、「イエス・キリストはわからないが武内をみてキリストが好きになった」と。夫人は「武内によってどんなに清められたかわからない」と在りし日をふりかえっていう。
 
 武内の仕事であげなくてはならないのは、労働紹介所長時代、他都市に先んじて「労働保険組合」(大正十三)を創設したことであろう。これはわが国社会事業史上注目されるべきことであった。
港湾作業の労働者たちなどが傷病になったり仕事にあぶれることが多かったが、当時は何らの救済もなかった。武内は友愛会神戸連合会とのかかわりもあったこととて、早くからこうした制度について感心をもち心を痛めていたが、神戸市の吏員の立場もあり、篤志家の寄付をつのることもできず悩んでいたという。

 おりから神戸市社会課長のもとへ千円の寄付があったことからかれの好意によって基金とすることをえ、日雇労働者の生活を守るための共済制度として発足したのである。(「木村義吉さんを語る座談会」昭和十二年十二月、於大倉宅)
 
 かれはまた日雇労働者たちを心から大切にし「日雇労働者の親」としたわれたという。その頃常時あったよっぱらいの乱暴も気にせず、どんなときもいやな顔をしないで何時間でも話をきくのがつねであった。

 だから、昭和四、五年頃、部下の金銭上の不始末を自分の責任として職を辞し、自己の退職金を提供、弁済した。武内の辞職を知った多くの日雇労働者はかれの復職を求め、市役所におしかけ、当時の木村社会課長が自ら自動車で武内を迎えに走り、結局あらためて雇員として新採用のかたちで前職にもどらせたという。日雇労働者たちは新川や番町での武内のことをよく知っており、かれのいうことにはよく従ったからである。
 
 こうして職業行政にあっても功労者として知事、労働者職業安定局長の表彰、感謝状をうけたが、イエス団のほか神戸、灘両生協(合併以前)、愛隣館、兵庫県労働保険組合などの役員として社会的活動も多い。

 ことにイエス団は財団、社会福祉両法人として、関西での賀川の社会事業体として、教育・保育・隣保・用語・診療・簡易宿泊所・母子寮・厚生など多面的かつ多数の施設と事業をいとなんでいたが、賀川の補佐の役割を担う武内は事実上その管理運営の責任者として、心を砕くことが多かった。

 武内は一方ではこうした経営と管理についての面ではすぐれた能力をもっていたと思われる。少年のときすでに家庭を養い、工場をみずから経営したこともあったことは、前に述べた通りである。その頃賀川に十銭の下駄をやめ十二銭(もっとも安くつく)にした方がより経済的だと献金をして賀川より叱られたという。

 賀川の死去後ほぼ六年目、昭和四十一年の春、武内も師のあとを追うようにこの世を去った。そしてかれの生前の功労に、正六位勲五等、雙光旭日章がおくられ、兵庫県知事よりは永年の社会福祉事業につくしたことへ感謝状がおくられた。夫人はいまもかれの社会事業のいとなみの場であった長田区三番町でイエス団のゆかりの名をもつ「天隣乳児保育園」を開いている。

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