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賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(19)


 賀川最初の「中国の旅」から武内への絵葉書

 前回は、大正11年(1922年)2月の「賀川夫妻の台湾の旅」の絵葉書2枚を眺めてみた。今回のものは、消印は「6」が読み取れるだけで判然としないが、表書きに「九月八日 北京にて」とある。


img471.jpg


 宛名は「日本神戸市 葺合区吾妻通五丁目 イエス団 武内勝様」とあり、
 本文は、

     支那は困った国です。唯今は飢饉の最初です。
     之から冬にかけ幾万人かが死ぬでしょう。
     留守を色々お世話になります。
     支那の平原を祈って通って来ました。
     十五日頃帰ります。          
                  賀川豊彦 
                   ペキンにて


img472.jpg


 この絵葉書を眺めているだけでは、これが何年に差し出されたものかを確定することは出来ない。しかし、有難いことに米沢和一郎編「人物書誌大系37 賀川豊彦Ⅱ」(日外アソシエーツ株式会社、2006年)599頁~657頁には新しい「年譜」が収められていて、特にそこには賀川の外国伝道の詳細が記されている。

 この絵葉書の本文にある「十五日頃帰ります」の文字と「九月八日 ペキンにて」を「年譜」に重ねると、どうもこの絵はがきは「大正9年(1920年)9月8日」に差し出されたことが判明する。

 「年譜」によれば、1921年8月19日から24日まで、賀川豊彦は、上海日本人会YMCAの第1回夏季自由大学講座の「応用社会学」の講師を務め、20日から25日までの5日間、青年会館において「聖書講義」を行なっている。

 この時、内山完造の仲介で、孫文とも会見。8月28日朝、上海を去っている。そして彼は中国各地を巡回して、9月15日夜遅く神戸貧民窟へ戻る、とあるのである。

 それは10月3日に「死線を越えて」を出版してベストセラーになる直前のことである。

 この書簡は、したがって前回の「初めての台湾の旅」(大正11年)より2年前の「初めての中国の旅」先から、武内勝に書き送ったものということになる。

 なお、前回の「阿里山登山記念」とスタンプの押された「阿里山扁柏林」の絵葉書も、そして今回の「支那風俗」(A Native Sedanchair in Shangha)の絵葉書(別掲)も、いずれもMADE IN JAPANであり、貼られている切手も日本国内と同じ「大日本帝国郵便」の「壱銭五厘」であるのも、当時の日本を伝えるものである。

 前記『書誌体系』の「年譜」をなどって見ると、賀川豊彦は戦前、敗戦までの9度にわたって中国を訪問している。ただし、彼は戦後一度も中国に足を運んだ形跡はないようである。(2009年6月13日鳥飼記す。2014年2月1日補記)


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