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賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(22)


  賀川の眼病と阪神間への引越し予告
        春子ほか代筆の武内勝宛封書
 
 既述の通り、今回の「玉手箱」の新発見には120通を越える「賀川夫妻の書簡」が収められていた。
 これまでここで取り出したものは、主に賀川の神戸時代、旅先から武内勝宛に送られた絵葉書などで、まさしく「玉手箱」の「お宝探し」の旅であった。そして賀川の家族が東京松沢に移ったあとの書簡の中からも、神戸イエス団の「西川のおじさん」を悼む「馬の天国」に纏わる一文も眺めてみた。

 今回は、一つの封筒に収められていた「春子ほか代筆の三つの書簡」を、下に並べてみた。
 「春子ほか」としたのは、三つの書簡の内、春子の筆跡と認められるのは第三書簡のみで、第一・第二書簡並びに封書の表裏は、ほかの方の筆跡である(これは何方の筆跡であろう?)。
 三通とも200字詰めの「賀川原稿用紙」に書かれている。

img515.jpg


 封筒の差出には「府下松沢 賀川豊彦」だけ書かれ、表も「神戸市東遊園地労働紹介所 武内勝様 親展」とある。
 誠に簡略なもので、これで郵便は届いている。切手は「参銭」。

 この封書も消印はまったく読み取れず、春子代筆の第三書簡のみ「八月二日」と日付がある。
 
      *     *     *     *

第一書簡(3枚)

img516.jpg


  武内勝様

 長い間、ご無沙汰して居ります。私は眼病で約五拾参日間寝て仕舞いました。明日あたり一先退院したいと思いますが、それはあまり長々寝て居るので、神経衰弱や胃傷の方が悪くなったので、それを一先癒やして来たいと思って退院するのです。いまだに文字が見えないので弱って居ます。然し失明せずに済みました。
 先日神戸消費組合の事に就いて、中山君と本田君へ手紙を出したのですが、返事を呉れないものですから、貴方に手紙を書きます。
 れいの組合長の問題ですが、社会課長の木村義吉君から福井君を再度組合長にしてやって呉れ、と言うて来られましたが、他の理事の意見は何うなのですか知ら、他の理事が宣いと言えば、私に於いてはあまり反対はありません。然し従業員側の意見は何う言うふうですか。その辺の消息を至急お知らせ下さい。奥様の御様子は何うですか。御快癒をせられんことを、専一に祈ります。
代筆を御免下さい。
                             賀川豊彦


    *     *     *     *

第二書簡(2枚)

img517.jpg


 武内勝様

 前略 御手紙有難う御座居ました。
 日暮通り三丁目の家を明けることについてはあまり急がないで下さい。その理由は、私が神戸に帰って新川で眠る所がないと困りますから、私は阪神間にいま土地を見つけて居るのです。そうして九月の末頃には、適当な所を見つけて、道具と書物を移したらと思って居ます。それまで何うか家の方は早く処分しないでおいて下さい。何分よろしくお願いします。
 主にありて、イエス団の上に恵みあらんことを祈ります。
                            賀川豊彦(書名のみ賀川)
 乱れ書で代筆をお赦し下さい。


       *    *    *    *
 
第三書簡(2枚)

img518.jpg


 武内勝様

 毎日お暑う御座います。
 先日はお手紙を以って映画に就いてお問合わせで御座いましたが、御殿場に止まって居りましたので、今日まで拝見いたしませんでした。従って、御返事が延引いたしました。
 映画はいつぞや、神戸で普選運動の映画で、失敗いたしました事も有りますし、どうも成功は覚束ないと思います。
 兎に角、興行物は六ヶ敷様であります。私の考えでは、致すことに反対であります。

 旅行に疲れましたので暫く草津行も見合せ、松沢で静養いたしております。今夕は、武内周一様もお出で下されました。今日午後六時二十分過、強震が有りました。神戸は如何かと思いましたが、震源地が千葉であるため、安心いたしました。では、お返事まで 
                             賀川豊彦
 代筆
 八月二日  

        *     *     *     *

 豊彦は、眼病には生涯のうち幾たびも苦しんできた。
 春子は、豊彦より早く眼病に罹り、1917年(大正6年)に右眼の視力を失っていたが、豊彦も神戸時代、1923年1月トラホームが悪化して4月から4ヶ月も入院治療を強いられている。
 病み上がり直ぐ、関東大震災の救援で神戸を離れ、翌年(1924年春)にも眼病を悪化させている。

 今回の封書にある「眼病で五拾参日間寝て」いて「明日退院したい」という書簡は、下記の記述などから推測してみて、豊彦の三度目の眼病の悪化となった1926年(昭和元年)3月からほぼ半年、一時は失明状態になった、あの時の書簡ではないかと思われる。

 「賀川豊彦全集」24巻所載の「身辺雑記」には、1926年の頃のことを賀川は、次のように書き記している。

 「七月二十九日から開かれる、御殿場のイエスの友全国大会に私は出席したいと思って居ります」(61頁)「八月、草津に居る間、「魂の彫刻」という、一冊の書物を筆記して貰いました」「草津から帰って、私は直ぐ大島医院に入院して、眼球の鬱血療法を受けました。」(68頁)「十月七日家族を引纏めて、私は西に帰って来ました。子供の為に武庫川に沿うた野原に小さい一軒の家を借りました。」(68頁)

 豊彦の「死線を越えて」三部作に続く「自伝小説:石の枕を立てて」(実業之日本社、昭和14年)は、東京を拠点とした3年間の出来事を取り上げたものであるが、この小説の末尾には、

 「大阪と神戸の中心地である阪急沿線西宮北口に一軒の家を探して貰った。・・東京郊外松沢村の小さな家をたたんで東京駅に向かった。・・三年間東京のために尽くした報酬は、空っぽの飯櫃と何十円かの借金とであった。しかし、新見はその凡てを感謝した。喜代子は小さな蒲団を子供用のために延べて感謝の祈りを捧げていた。それで新見もそれに加わって、神の不思議なる恩寵に対して感謝した。外は暗かった、しかし、長屋の電灯は明るく光っていた。」

 小説のそこには「吉本健子も親切に東京を捨てて神戸に随いて行ってくれることになった・・」とある。
 どうも第一書簡と第二書簡の「代筆」をした人は、あの「吉本健子」さんのように思えてくる。これは彼女の筆跡かどうか、お教えいただければありがたい。

 賀川豊彦は、其の後も眼病の治療で、1940年4月、東京中野病院に入院している。
              (2009年6月19日鳥飼記す。2014年2月4日補筆)



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