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賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(36)

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   斎木進之助・ミツル夫妻の「結婚式」

 「玉手箱」のなかに「賀川原稿用紙」2枚に書かれた賀川豊彦の「速達」書簡があった。

 封筒も「東京市世田谷区上北沢町二丁目六〇三番地 賀川豊彦」と印刷されたもので、宛先は「西宮市北口高木町南芝 一麦保育園 武内勝様」である。

 書簡の末尾には「四月廿八日」とあり、消印をよく見れば「18.4.28」と読み取れるので、昭和18年4月28日に投函されたもののようである。

 内容はといえば、下記の如く、何だか慌しく感じられるもので、武内夫妻に媒酌人を依頼して、結婚式の日取りを決め、至急結婚式の印刷物をつくるよう、武内へ賀川が一方的に依頼する文面となっている。もちろん関係者にはこれで万事了解済みなのであろうけれども。


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    *      *      *      *

  武内勝様侍史

  前略 昨日木立義道氏と相談の結果、武内兄夫妻に媒酌を御依頼し、木立氏か
  深田氏のどちらかが、宮川さんの親代わりになって、神戸に行かれる由であり
  ます。何卒その儀よろしくお願い申し上げます。もしその段取りが悪ければ、
  平野夫妻に媒酌を依頼し至急印刷物を御作り下さい。私は五月八日、福知山、
  九日(日)丹波綾部、十日(月)神戸結婚式に出席いたします。司式は私が
  致します。
  右のように何卒斎木氏に御伝え下さいませ。
  私からも書きます。

    四月廿八日 
                             賀川豊彦


  *      *      *      *

 さてこの簡略な文面からだけでは、どなたの結婚式なのかもわからない。
 しかし末尾に「右のように何卒斎木氏に御伝え下さいませ。私からも書きます」とある。
 これを一読した折、「斎木氏」とは、ひょっとしてあの「斎木進之助」のことで、これは「斎木進之助・ミツル夫妻」の結婚式では?と予感した。

 斎木進之助は、1907(明治40)年、東京生まれ。大正13年に賀川と出会い、木立義道、深田種嗣、牧野仲造らに導かれて、昭和12年とお聞きした覚えがあるが、神戸税関の営繕課で働きつつ、神戸イエス団にあって武内勝らと活動した御方である。

 夫人となるミツルは、東京本所にあってすでにそこで信望厚い働き手であったが、賀川はこの二人の結婚を強く促し、住む場所も賀川と武内によって神戸市長田区四番町の旧家を買い取り、そこを「天隣館」と名づけて、そこを二人の新婚家庭に用意し、昭和18年5月10日に結婚式を挙げた。――というお話は、かつて斎木夫妻から直に、ご自宅において聞かせて頂いたことがある。

 ならば、結婚式の日取りが同じである事から、この書簡は「斎木夫妻の結婚式」の時の慌しい「速達便」ということで間違いはない。

  *      *      *      *

 賀川の神戸における活動拠点は最初の「葺合新川」と共に「長田番町」が早い時期から置かれて来た。大正時代からの馬島僴一家や芝八重などの献身的な働きについては、すでにこの「お宝発見」において少し紹介してきたが、この時結婚式を挙げた斎木夫妻は、戦前昭和18年から戦後昭和38年までの20年にもわたる期間、「番町」のど真ん中に建つ「天隣館」を拠点として働いてこられたことの中身は、これまで殆ど紹介されていないように思われる。

 戦後「天隣館」において、ミツル夫人が中核となり「神戸市立長田保育園」が運営されてきたこと、そこでの日曜学校には、関西学院神学部の学生だった賀川梅子や播磨醇なども熱心に参加していたことなども、充分記録化が出来ていないようである。(追ってこのブログUPの途上、いくらかの新たな歴史が明らかになっていき、さらのそのあとに手掛けることができた「吉田源治郎・幸の世界」の連載のなかでも補充ができたが、この段階では触れないでおく。)

 「番町」においては後に、白倉正雄牧師が番町地域の最初の隣保館「長田厚生館」の嘱託館長として働かれ、河野洋子や鈴木絹代らの「天隣館」での学童保育活動も大きな足跡を残し、武内勝夫妻らによって「神視保育園」「天隣乳児保育園」の開設運営もあり、現在もよい働き手を得て、イエス団の働きが継続されている。

 添付の写真は「賀川豊彦写真集」に収められている「天隣館」である。


館天隣


    *      *      *      *

 「斎木進之助」に関して、神戸イエス団教会の緒方彰が、以下の著書の中に行き届いた文章を残している。
 「生命の水みち溢れて―賀川豊彦とともに」(大阪キリスト教書店、1994年、219頁~222頁)。「賀川豊彦の心と祈りに生きた人々―イエスの友会人物伝」(2004年、67頁~70頁)

      ♯             ♯

 斎木進之助は、一級建築士の技術を活かして、前記の神戸税関、神戸生協、尼崎市役所で勤務し、戦後再建された神戸イエス団や豊島の建物の設計建築に貢献しているが、私にとっては1966年から2年間、神戸イエス団教会時代には、教会役員並びに教会学校の校長として、武内勝亡き後の大黒柱としての働き振りが、今も記憶に鮮やかである。武内勝の葬儀での弔辞は斎木進之助であった。

 斎木は1993(平成5)年7月、86歳の生涯を終えているが、幸い生前2度、明石のご自宅を訪ね、ご夫妻から親しくお話を伺う機会があった。いずれその記録をお目にかけたいと思う。

     (2009年8月3日鳥飼記す。2014年2月20日補記)


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