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賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(38)

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   戦時下の賀川「豊島にて稲こぎ手伝い」  

 戦時下の賀川の言動に関しては「特高資料による戦時下のキリスト教運動―昭和11年~19年」全3巻(新教出版社、1972年~73年)や特高資料「兵庫県要視察人ニ関スル情勢調」などで、当時の特高の目からの内偵記録が残されている。

 ここで紹介する戦時下の賀川豊彦が「香川県豊島村」にあって「稲こぎ」の手伝いをする一通の葉書が書かれたときも、賀川は「要視察人」としておかれていた事がわかる。

 例えば、昭和18年3月29日から4月2日まで、豊島村神愛館で開催された「基督教農村福音学校」の動向も内偵され、そこでの「特異発言」などをまとめて「特高月報」に記載されている(前掲特高資料第3巻9~10頁)。

 周知のとおり、この年5月27日の神戸での賀川の講演が「反戦的並びに社会主義的思想である」との理由で、相生橋警察署に一晩留置され、11月3日から9日間、賀川は、WRIメンバーのイシガオサムの徴兵拒否の取調べから、賀川の思想的影響を受けていたとの理由から、東京憲兵隊本部に連日呼び出され尋問されるなどして、特にそれ以降、公的な宗教運動は困難となるのである。

 こうしたなか、豊彦は、彼にとってすでに「夢の島」であった瀬戸内の島「豊島」に渡り、著作に励み、「稲こぎ」の手伝いをするなどするのである。

    *      *      *      *

 賀川は、1938(昭和13)年以来、豊島の「神子(みこ)ヶ浜」に、結核患者の保養農園をつくり、立体農業の実験場にも整えるべく、夢を膨らませてきた場所であった。

 そしてこの場所は、昭和15年8月25日、東京松沢教会で「エレミヤ哀歌に学ぶ」と題する説教を終えると同時に、反戦運動の嫌疑で渋谷憲兵隊に検束され、9月13日まで留置、10月から「隠遁」して著述活動に専念した場所としても、広く知られているところである。昭和15年10月4日付けで「瀬戸内海豊島にて」の「序」のある「日本協同組合保険論」(有光社)を仕上げている。

 あの時は、大正11年1月に創刊した機関誌「雲の柱」が発行停止処分となり「廃刊」に追いこまれた時でもある。

    *       *       *       *

 さて、今回発見された豊彦の書いた葉書の差出は、「香川県小豆郡豊島村家ノ浦 神子浜 賀川豊彦」であり、本文には日付はないが、葉書の消印「18・11・24」が残っていて、投函された日は「昭和18年11月24日」であることがわかる。

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宛先は「兵庫県武庫郡西宮市北口高木町南芝 一麦保育園 武内勝様」となっている。文面は、次の通り。

    前略 来る十一月廿八日(日)にはイエス団の
    朝の礼拝に出席いたす予定にいたして
    居ります。 私は十一月廿六日 神戸に向い
    ます。豊島に来て「稲こぎ」を毎日手伝って居
    ります。人手が少ないので広本さん作(?)さん
    も大変です。肥料が無いのと、作が悪いので、一反に
    六、七斗しか取れないのが残念です。宇都宮使徒
    君のため祈っています。 
                       賀川豊彦
 

    *       *       *       *

 昭和18年に出版された賀川の第3詩集「天空と国土を縫合わせて」(日独書院。表紙絵は賀川の作品)の中に、「瀬戸内海豊島保養農園」で作業をする2枚の写真が収められている。1枚は「山羊小舎壁下地作業に従事する著者」、もう1枚は「雑草刈の著者」と付されている。「稲こぎ」の写真ではないが、豊彦が麦藁帽子をかぶって雑草刈りの作業をする写真を添付しておく。

賀川の稲刈り


 文面にある「広本さん」は「広本久代さん」(1884~1963)、賀川の「天使の日記」のモデルにもされ、「現代のマグダラのマリヤ」と称されたとか。広本さんは、豊島では「耶蘇のヒモちゃん」の愛称で親しまれ、「香川豊島教会」の建設に大きく貢献した、ともいわれる。詳しくは、前に紹介した緒方彰「生命の水みち溢れて」(215~218頁参照)。
 
    *       *      *      *

 なお、昭和4年の「聖浄と歓喜」(日曜世界社)の改訂版「復活の福音」(同社)が昭和17年に出版されているが、その「序」を見ると「昭和十七年二月二十日」「瀬戸内海・豊島にて」とある。
 賀川のこの「序」には、次のことばがある。

 「死」を代償として支払わなければ、復活は無いのだ! 小さい自分が死ぬことによって、神の子の意識を着ることが出来るのだ! 死は成長の為めに支払われる脱皮だ!
        

 追記
 「広本久代さん」が設立の貢献したといわれる「香川豊島教会」の牧師として働いた小国清子が「豊島に賀川資料館を構想」という「山陽新聞」の記事の紹介を、先日(2009・7・29)の伴武澄氏のサイト「Think Kagawa」で行われていた。これも嬉しいつながりである。ご覧あれ!

  
 2009-07-29
        小国清子牧師が豊島に賀川資料館を構想

 7月29日付山陽新聞第2社会面右肩に以下の記事が掲載された。地方紙としては、この1年、神戸新聞、徳島新聞、中日新聞、岩手日報に賀川献身100年関連で記事が掲載されたが、それに続く地方紙掲載記事である。執筆した池本記者は編集委員で、豊島での賀川の活動を取材したことがきっかけとなって、賀川豊彦の全体像に迫ろうとしている。今後の山陽新聞に期待したい。(伴 武澄)
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 100年前に日本を覆っていた貧困に立ち向かい、世界的に「聖者」とたたえられた牧師・社会運動家賀川豊彦(1888~1960年)が香川県土庄町豊島に残した足跡を後世に伝えようと、賀川から引き継いだ教会を守る女性牧師が、所有する民家を提供し、資料館開設の構想を温めている。
 結核を患っていた賀川は、知人から療養適地として豊島を紹介され、1939(昭和14)年にサナトリウムを建設した。太平洋戦争勃発後は豊島で事実上の軟禁生活を送った。
 戦後の47年に日本基督教団(プロテスタント)が香川豊島教会を設立。現在の小国清子牧師(87)は58年、賀川から「豊島を頼みます」と言葉をかけられ、赴任したという。
 島内の神子ケ浜地区には、賀川が起居し、教会とサナトリウムが併設されていた「ウェスレー館」が残るが、激しく傷み、屋根や床が抜け落ちようとしている。賀川と同志は唐櫃(からと)地区に「農民福音学校・立体農業研究所」を開き、理想の農業を追求したが、今は跡地に記念碑が立つのみ。
 小国牧師は賀川ゆかりの場が時の流れに埋もれ、感化を受けた島民も減ってゆく状況に心を痛めていた。家浦地区にある現教会の隣に住む女性が島外の施設に入所し、居宅の買い取りを懇願されたのをきっかけに、賀川資料館としての活用を考え始めた。
 木造2階80平方?ほどの普通の民家だが、かつてのウェスレー館周辺の写真パネルなどを展示し、著書や書簡なども閲覧できるようにしたいという。
農民福音学校講師の子孫や卒業生、賀川が創設したイエス団(社会福祉・学校法人)関係者からの資料提供も望んでいる。
 賀川の孫のグラフィックデザイナー賀川督明さん(56)=山梨県都留市=は「豊島には教会のほかにイエス団の施設が3つもあり、『立体農業』を風化させまいという若者たちの動きもある。資料館ができれば大変意義深い」と話す。
 来年10月には、直島福武美術館財団が唐櫃地区に建設中の美術館が開館予定。小国牧師は「美術館を訪れる人にも豊彦先生の足跡を知ってもらいたい。何かを残しておかなければ分からなくなる」と話し、協力者を求めている。
                           (池本正人山陽新聞記者)

          (2009年8月5日鳥飼記す。2014年2月22日補記)
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