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賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(39)

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  三浦清一牧師と啄木の妹・光子「神戸愛隣館」に 
 
 先年、藤坂信子さんの労作「羊の闘い―三浦清一牧師とその時代」(熊日出版、2005年)が話題を呼んだ。日米混血の牧師と石川啄木の妹・光子の激動の時代を生き抜いた貴重な記録である。

 三浦は大正10年、26歳の時、はじめて神戸新川を訪ねて以来、賀川との交流は続き、昭和16年12月、三浦は治安維持法違反の疑いで逮捕され、半年余り獄中にあった。三浦は昭和17年12月、家族を伴って上京し、賀川の元に身を寄せる。

 同書に依れば、「昭和19年11月、東京に戒厳令が敷かれるというので、ブラックリストに載せられていた清一を賀川がきづかって、関西へ逃げろと勧めた。そこで家族を東京に残し、ひとまず単身で、賀川が神戸に持っていた免囚保護施設の愛隣館へと向った。免囚保護施設とは、窃盗をした少女や空き巣ねらいの常習犯などの非行少女を預かっている施設である。清一は愛隣館の館長に就任した、光子は東京の家の整理をし、翌年の3月10日、東京大空襲のなかをリュックを背負って関西へたった。」(212頁)という。

 光子は、寸断された列車を乗り継いで神戸にたどり着いたのが、4月13日で、啄木の命日であった。

           *      *      *      *

 さて、賀川の武内に宛てた書簡のうちで、三浦一家が「神戸愛隣館」に就任することに触れたものが2通残されているが、ここではその一つを取り出しておく。


武内手紙一枚目


 封書の速達便で4枚の筆書き。
 差出は、東京市世田谷区上北沢町2丁目603番地 賀川豊彦
 宛先は、兵庫県西宮市北口高木町南芝871 一麦保育園 武内勝様
 差出日、昭和19年9月26日

       謹啓
       先日中は色々お世話に相成
       御礼申し上げます。帰京後
       早速三浦清一氏に相談致し
       ましたところ一晩祈って考られ
       し上神戸愛隣館を引受
       けて下さる決心を付けられました。
       月給は「百二十円」と申し上げました。
       不足の分は私方の「雲柱社」で
       補給いたしませう。三浦氏は各
       方面の講演を引受けていられるので
       十月八日以後でなければ自由になれ
       無い由、しかしその前に一寸見に
       行くと云われています。それで愛隣
       館の平野氏夫妻、佐伯照代姉、吉田
       君にもお伝え下さい。だが此度は一人で
       西下せられ、夫人と令息は私方の
       教会に当分の中残留せられます。
       右ご通知まで。
       ご夫人にもよろしくお伝え願上げます。

       尚、佐伯照代姉は今後とも是非
       愛隣館に手伝って頂きたく存じ
       ますから、その由お伝え下さい。
       私は十月七日頃西下する予定に
       致して居ります。
        九月廿六日 
                    賀川豊彦  
        武内 勝様

    *       *       *       *

 神戸愛隣館は明治31年、篤志家・村松浅四郎が生田区(現・中央区)内に設立した「出獄者更正施設」がルーツ。外国婦人から1万円の寄付があり、明治39年、兵庫区楠谷町に木造2階建ての建物が新築された。収容者は年間650人、相談・指導は千数百人を数え、米国のミッションの教師たちが協力した。添付の写真は「大正期の神戸愛隣館」である。

 村松は昭和9年に賀川豊彦に事業の継承を頼み、賀川からさらに三浦夫妻に託された。戦後は児童福祉法に基づく養護施設として再出発した。

 三浦は戦後、灘購買組合文化部の聖書研究会のメンバーを中心に日本基督教団「観音林伝道所」(現・東神戸教会)を設立して牧師に就任。昭和26年には兵庫県会議員に当選して2期つとめ、昭和37年に67歳で没し、光子があとを継いだ。

 光子は、夫を看取った後、愛隣館にこもり、「兄啄木の思い出」(理論社、昭和40年)を書き上げ、3年後に生涯をとじた。そして「神戸愛隣館」も光子の死後数年で閉鎖された。


三浦新聞記事写真


 (この部分は木村勲氏の「朝日新聞」1996年1月7日付け「風景ゆめうつつ」17を参考にした。)

  *       *       *       *

 三浦清一には、数冊の著作があるが、晩年61歳で処女詩集「ただ一人立つ人間」(的場書房、1956年)を出版、翌年最期の好著となった「世界は愛に餓えている―賀川豊彦の詩と思想」を同書房より刊行している。

 これには、晩年の賀川と三浦の顔写真が巻頭に収められている。貴重な写真であるので、ここに記録として添付させていただく。


三浦お顔

賀川の写真


 三浦のこの最後の作品は、冒頭に見事なエッセイ「賀川豊彦は詩人である」を収め、賀川の詩集「涙の二等分」「永遠の乳房」「天空と国土を縫合せて」3冊を取り上げ、詩人・三浦清一ならではの「詩評」を展開する。そして終わりには、賀川の代表作のひとつ「愛の科学」への独自の読解を行っている。

 そして「巻末に」として、当時兵庫県知事であった畏友「阪本勝」が、二人の詩人・賀川と三浦をうたう、阪本らしい美しい「跋」を書き残している。

 三浦の「序」の中から、少し取り出しておく。

 「賀川に師事して三十年、私は彼から多くのものを得たが、最も大いなる影響を与えられたのは、「詩」に対する観劇と、「社会」に対する深い関心とであった。

 この小著は、その大部分は、太平洋戦争たけなわの日に筆を執ったものである。その時私の心は闇く、前途に希望を見出すことは困難であった。ややもすれば、魂の祭壇の上にかかげた灯火は、吹き消されそうであった。しかし賀川の詩の中に深く沈潜し、そこに堪えられている「いのち」に触れたとき、もう一度私にも「強く生きよう」というひとすじの光が射し込んで来た。その感激がこの小さな仕事となったのである。

 鉄窓生活七百日、キリスト教会に捨てられ、多くの友人に捨てられ、米塩の資得るに術なく、妻をかかえ児を擁して、まったく前途の光明を失ったとき、わがために家をそなえ、わがために読書の機会を与え、三つの生命をして餓えざらしめた賀川豊彦の愛情を思うとき、その深刻なる記念のためにも、なかなか筆を加うることは、わたしの感情がこれを許さなかったのである。」(5~6頁)
 
 追記

 先年、神戸の賀川記念館(ミュージアム)において、三浦清一のまとめた「賀川豊彦随筆集」(仮題)――三浦の解説と賀川豊彦の随筆・小品を独自に編集したものーーの草稿原稿が残されていたことがわかり、拝見する機会があった。賀川豊彦の随筆は膨大な分量になるが、散逸していた小品も数多く蒐集して独自に整理して解説を附した完成稿であるので、公開の待たれる作品である。

    (2009年8月6日鳥飼記す。2014年2月23日補記)


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