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賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(58)

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  お宝発見「武田勝日記B」(3)  昭和36年7月~9月
 
 今回の武内の日記の中に、この地域の住宅問題への言及がある。戦前、賀川らの努力が実り、「不良住宅地区改良法」が制定された。その第1号として、神戸のこの地域が指定され、昭和6年から10年までに鉄筋共同住宅326戸と木造住宅60戸が建設された。

 しかし、ここで紹介する武内の日記に依れば、昭和36年段階でも、戦災で焼け残った鉄筋共同住宅の屋上に90戸ものバラックが建ち、改善の方途も確定していない状況にあった。この頃漸くにしてというべきであるが、国を挙げた根本的な解決の方策を本格化させる時を迎えていた時であった。

住宅生田川共同

 添付の写真は、武内日記から10年近く経た昭和45(1970)年のものであるが、神戸市内においてもこの数年後から、集中的な環境改善事業が取り組まれ、共同住宅そのものも姿を消した。そして今日在るような、高層の市営住宅郡の建ち並ぶ、新しい街へと大きな変貌を遂げたのである。

 残念ながら、この急激な地域の変貌過程は、武内没後のことである。21世紀を迎えた街の現在を、もし武内が見るとすれば、如何なる感想を抱くのであろうか。

    *      *      *       *

          昭和36年7月~9月

7月
1日 
終日、神視にいて賀川記念の免税認可申請の一部作成。

2日
礼拝後、終日教会に残り、夕拝の証言を済ませて帰宅。妻と二人連れで二食の弁当持ちであった。
話の最中、岸本君が持病のてんかんを起こしたので、看病に医師の依頼に皆が協力した。幸い集会閉会後、やや元気になったので、寿君に岸本君を自宅まで見送ってもらった。

3日
終日、イエス団立ち退き後始末。前不法占拠者の一人に依頼した。

4日
記念館の屋上に広告塔を建てることについて、知事の了承を得た。これで年額200万の前金を得、記念館の維持費に心配がなくなった。

5日
兵庫県労働保険組合の役員会が労働会館で開催され、10時から6時まで出席した。
理事長に対する反感が多く、事毎に衝突であった。専務の退職でよりこじれた様である。労働者の代表は理事長の高姿勢が気に食わぬといっている。理事長には気の毒でならなかった。できることなら引退したい事であろう。
大蔵省は、賀川記念事業募金に就いて、寄付金の免税認可をしたとの連絡を受けた。これで募金に馬力をかけることが出来る。

6日
5時、一麦に於いて委員会開催。各施設に対する助成方法及び金額は金田、本多、武内の3理事で決定することになった。
次回は、金田理事の都合により8月行なう事になった。基金は土地を買収することに決定した。但し、財団は年額200万を充当する事とし、たとい借入金をしてもこの額を保証することに決議した。(田中提案)

7日
神戸新聞広告部より10万寄付。
近藤、日鋼社長の両人が、来団あり、記念館を公団の資金により7階か8階の建物とし、1,2,3階を使用し、他は住宅としては如何との意見であった。
児童の運動場は屋上にとすることにして計画することも、面白い案である。
神戸市を訪問し、立ち退きの件で礼を述べ、また橋本氏にも礼を述べた。
バラックの後片付けがまだ済まない。

8日
右近、橋本両氏に礼を述べに往った。
市のアパート管理人、所長大角治氏と塚田利雄氏の二人が来て、不法占拠の立ち退き状況を聞かしてくれと依頼された。アパートの屋上の90戸のバラックを建て、其処にいる人達が居住しており、また畑を作っていたと言う。
住宅料500円では新築が出来ず、放任も出来ず困ったものだと、悲観論を称えた。建築費は国庫から二分の一の補助があるのだから、一ヶ月二千円くらいで賃貸の出来るものを建てたら、新川の住宅問題は解決する。民生局長の無能の結果、新川、番町の住宅問題の解決がつかないのではないか。

9日
礼拝出席。立ち退きの後始末で、汚い古木などを焼いていたが、火が大きくなり隣のガソリンスタンドに火がついては大変と、消防署に依頼して水をかけてもらった。そのため始末書を提出する事を、署から要求された。

10日
イエス団の敷地、建築位置などに就いて検討した。
午後神視に出掛けた。特筆事項はなかった。

11日
明石農協牛乳に往き、組合長その他3名と地裁に出席し、債権額を決定した。まだ淡路信用の一口が残っているが、何う決定されるか。

12日
本多君より垂水の山林1坪200円で買えるが思案しないかと連絡があり、本多君の事務所で、村山牧師と3人が2時間待ったが、案内人が出てこないので中止した。

13日
大阪ヴォーリズ事務所を三浦、村山、武内3名が訪れ、記念館の設計について懇談した。設計と請負とを別にした方がよいか、最初から請負に一任したほうがよいか、検討の必要がある。
ヴォーリズに設計を依頼するのであれば、請負は入札とすべきであり、竹中に請負をやらせるのであれば、ヴォーリズを依頼する必要はないと思う。

14日
本多氏により土地の現地視察をした。本当の山であって住宅地にはならぬ。
イエス団が所有すれば、山林は盗材されることは明らかであり、困難と思われる。同じ伊川谷でも明石に近い役場付近であれば、明石駅に3キロの距離であり、坪当たり300円の差があってもそのほうが有利と考えられる。

15日
丸山(仮名)が来団し、協同牛乳の解決に就き、自分に一任すれば早く解決がつくが、現状のままでは何年経っても解決は困難であると申し出てきた。不安になったので、反対に出て来たものと思われる。
近藤氏と電話で建築に対する打合せをした。

16日
久仁子の結婚仲介者として、堤先生を訪問しご依頼した。永井利彰君の父君と共に行った。松阪屋で、式に関し永井の父と息子と自分と久仁子の4人が打合せをした。
日々暑さが酷くなって来た。

17日
片山氏が、小野の山地について近く神戸市と合併になるのであり、地価が高騰するから最も有利な土地である、よい買い物であると進めてきた。然し、急に発展するものとは考えられない。

18日
村山牧師と生駒氏を訪ね、山下栄二氏を久保田鉄工所に訪ね、同氏に募金に就いての相談をした。山下氏は非常に好意的であって、直ぐ市長に電話し、共に市長に面談した。
市長も、大口の募金には自分で出かけるといわれ、元代議士山下氏は、僕も募金に廻ると約束し、尼で100万円は募金したいとのことであった。
非常に協力的であった。尚、市長は市として何がしかを予算化する決心であると話された。心強く思うた。有難い事である。
本城氏と面接し、募金に就いて協議をした。本城氏も非常に力を入れて厚意ある気持ちを示された。氏自身が募金に行くと度々話される事は、大きな奨励である。

19日
長田保健所に於いて、神視の園児にワクチンを与える事に就いて打ち合わせ、加藤先生によって飲ますことにした。
本多氏と橋田氏(仮名)との件は明日に延期した。

20日 
本多事務所に於いて橋田(仮名)親子より100万円渡すから事務所は何時空け渡すかについて話し合いの結果、橋田氏(仮名)は本多氏が8月5日事務所の明け渡しだと固持するので、橋田氏(仮名)は僕に一切の責任を負わせ100万も僕が預かった。

21日
尼崎市長名で芳名録に挨拶文を書くことと、知事名で募金依頼状を書くことで一日費やした。
不法占拠跡の片付けをして呉れた老人に礼をした。
千恵子が帰って来た。夏休み2週間の暇が与えられたからである。

22日
午前中イエス団、午後神視。

23日
松阪屋にて永井氏と打ち合わせ。

24日
和歌山の粉川教会で、イエスの友の修養会が開催され、これに出席した。
立証時間6分で、話すに苦しいが仕方なし。一言した。

25日
久仁子が帰宅したので家から打電あり、直ぐに帰宅した。久仁子は県病院で診察を受けて、5時佐野病院に入院した。

26日
永井君が来宅し、共に病院を訪問した。久仁子の診断は、3ヶ月で退院の見込みと院長は言われた。

27日
丸山中学校長を訪問し、病状に就いて報告した。
後、米田氏を訪問し、養老院設置に就いて懇談した。米田氏が果たして寄付するかどうかが明確でない。
YMCAで建築に就いて協議し、斉木、前田両氏の意見を聞くことにした。

28日
大阪松阪屋にて永井氏と面接の上、久仁子の30日結婚は取り消す事に決定し、松阪屋への申込みはこれを取り消した。取り消し料金は無用。堤先生を大阪大学院に訪ね、結婚式変更の連絡をした。

29日
自宅電話加入が認められたので、早速申込みをした。1万300円の工事費である。

30日
礼拝出席。久仁子の結婚式取りやめに就いて報告した。
三島氏(仮名)来宅し、家内は1000の無心でこれを渡した。

31日
三島氏(仮名)は、イエス団に来て3万円借用したいというたが、断った。
今日も1000貸せというので、今日も貸した。彼は金に困っているのであろう。


8月
1日
日光に於けるイエスの友会に出席のため、銀河で出発した。寝台券が買えたので楽に上京できた。

2日
日光の蒲生浜に開会前に到着した。自然が大きく且つ美しい。別荘が沢山あり、観光客が多数である。
大正8年に来たが、その時は舗装道路はなく、従ってバスもなく徒歩で登ったのであるが、今は便になったものである。
修養会の出席者が50数名で、先生の全盛時代の三分の一程度である。三分の一程度の若人の参加は、非常に頼もしく感じた。イエスの友の後継者が欲しいものである。
久し振りに旧友に会って、嬉しくもあった。

3日
今回の修養会は、プログラムに無理がなく、何となく落ち着いた気楽なものである。大変御馳走を食べさす。イエスの友開催以来、嘗てない御馳走である。
食事をしながら、貧しき者を忘れるな、との賀川先生の声が聞こえる。
男体山の裏の湯之元も見たし、湯の滝、戦場ヶ原も自動車で見物した。

4日
修養会も昼食で終わり散会した。
中禅寺湖を蒲生浜から船で渡ったが、雨降りで視野が狭く、何も見えなかった。又、華厳の滝を見に行ったが、これも雨で見えず、日光とは日の光であるが、毎日三日間とも雨天であった。日光に雲柱社が集まったので、降雨になったか。
出席者延べ57名では、兎に角淋しい。もっと多くをひきつける実力を持たなければ駄目だと、誰もが考えているようであるが、今のところイエスの友関係では、偉大な指導者がいない。
夜、金星で帰途に着いた。

5日
正午ごろ家に帰った。庭は草で茂り、野菜は水に餓えていたので、早速水を注いだ。

6日
礼拝出席。記念事業に対する東京方の報告。

7日
神視、イエス団、夜は一麦で委員会。土地に就いて。疲労を癒す時はない。

8日
住友信託の案内で御影、芦屋方面の土地を視察した。

9日
森及び酒井氏を訪問した。3時半から、米国の大学生に賀川先生の一代記を話した。但し、通訳つきの話はしにくいので不快である。

10日
大川、金田両理事の案内で、生駒の土地に視察に往った。
山又山で全くの山地であった。買うのは安いが、売る事は難しいと考えられる。協議の結果、大川氏所有地の地続きだけを買うことにした。
夜は、クリスチャンセンターに於いて、賀川豊彦劇の打ち合わせがあり之に出席した。

11日
イエス団、午後神視。夜、YMCAで賀川記念事業委員会、建設に関し協議した。兵庫建設か竹中か一般入札か。
自分としては、竹中に一任が最善と信じ、委員の多数も同感の様であるが、福井氏のみは兵庫建設を主張する。

12日
永井君が川崎から久仁子の見舞いに来てくれたので、自分と雪子と3人で病院を訪問した。ずっと快方に向かっている様子であった。院長も係り医師も不在であったので、詳細は不明であるが、第一はふとって来た、第二は蕁麻疹も薬の加減か知らないがずっとひいている。第三は永井君に会えたためだろうが、よく笑っていたし気分もよさそうで、入院の時と比べると雲泥の相違であると思う。

13日
礼拝出席前に、森田校長宅を訪問する考えで、家内と二人で宅を7時30分に出かけたが、バスの不便(1時間に1回)で予定以上に時間を費やした。
久仁子の欠勤に就いては、校長に一切御願いした。礼拝は止むを得ず欠席した。
夜は、村木氏(仮名)が来宅し、病気に窮しているから1万円貸してくれと依頼を受けた。然し、平素何の交際をしているわけでもなく、また久仁子の病気で支出が多く断ったが、自殺するといって動かず300円を恵んだ。

14日
三島(仮名)、植木(仮名)の両氏が協同牛乳の関係で来団した。管財人が病気の為引き上げて帰った。早く解決したいものである。
上山(仮名)と山下(仮名)の両氏が、土地の件で今日も御苦労様にイエス団に来訪、不動産はそんなに簡単に売買は出来ないが、ブローカーは儲けの為に熱心である。

15日
波止岡氏の案内で、有馬の土地を視察した。よい土地であるが理事会は何とするか。

16日
尼崎に出張し、賀川記念の募金打合せをする予定であったが、相手方の山下元代議士が休みでやむなく帰った。生駒氏が市と山下氏との連絡を取り、懇談の出来る日時を知らして貰うことにした。

17日
500円で土搬びの手製の車を使用した。従来どおり箱を引いていたのに比べると、労力は十分の一も要らない。自分で驚いた。不精は出来ない。工夫は宝である。

18日
久仁子を病院に見舞った。素人から見ると普通人と何等変わったところがなく、健康状態からも精神状態からも、ずっとよくなっていると思うのだが、池地先生は、入院の時と同じ事でよくなっていないといい、それで電気療法をやって見る、一ヵ月後にはその結果が現れ、よくなると思うとの診断であった。
久仁子に薬品の効果がないので、若し電気でも効果がなかった場合は、インシュリンを使用するとの話であった。本当によくなっていないかどうかについて、医師の見方も当たっているかどうかに、いささか疑問が残る。
上岡(仮名)、村木(仮名)の両氏が、小野の土地を早く買うように理事会に計ってくれと要求してきた。買えば直ぐ倍に売れるという。それではその方に売ったらよさそうであるが。
徳憲義牧師について、依頼のまま原稿用紙5枚に書いた。

19日
奈良電鉄三山木に出張。日生農園視察。
給料支払い。

20日
礼拝。役員会。西瓜。夕拝を廃止すべきか存続かについて協議した。

21日
大阪金田氏と預金寄付金などに就いて打ち合わせ。
預金については神戸銀行より50万の寄付を受けているが、預金をしていないので現在の定期満期を機会に、神戸に預金すべきである。本多氏も反対しないであろう。金田氏も賛成であった。

22日 
高橋氏と七福について打ち合わせをした。帝国信栄も七福も寄付をすると言ってくれた。

23日
本多氏と七福の預金に就いて協議した。
七福は他の銀行以上の利を出すといい、賀川記念に対しても寄付するとの申し出があり、神戸は日歩2銭1厘で預かるという。

24日
村木(仮名)、上山(仮名)の両人が来て、明石の土地の買収の際に労した点、今回イエス団はその土地を金にしたことに就いて、若干の謝礼は出ないかと要求した。よく説明したので納得して帰ったが、とることばかり考えている連中である。
財団法人イエス団の従業員年金案を作った。これでよく研究してみる。
年間どれだけの予算が必要になって来るか、これが問題であるが、将来の従業員の為に、年金制度は是非必要である。

25日
松尾尼崎信用金庫理事長及び神戸信用金庫理事長に面談し、賀川記念事業寄付方を依頼した。寄付金額は不明であるが、何れも了承された。感謝である。

26日
多聞寺で神戸市の公立私立の保育施設長、保母の研修会があり、3時湊川駅を出発出席した。
多聞寺は、寺の本堂という感じはなくユースホステル、修養会場を目的として建築されている。下から見上げたところ寺のようであるが、建物の中は寺らしくない。キリスト教会が善く利用するはずである。他の団体も善く利用している。食堂も清潔で便利であり、殊に便所は綺麗であった。会の問答は余り有益ではなかった、時間が欲しかった。

27日
礼拝司会。礼拝後、婦人会の例会で信仰に就いて奨励した。

28日
6時家を出発し、本多氏と共にクリスチャンセンターに行き、イエスの友会の劇と賀川記念事業に関係した協議あって、後泉佐野に土地を視察した。
今まで大阪の案内受けたものでは、一番ましな土地と判断された。

29日
高木氏(仮名)より、箕谷の奥に坪当たり17円の土地があると知らせてきた。
本条ダムの近くで景色のよいところだという。村木氏(仮名)も坪200円程の土地があると図面まで持って来てくれた。但し、遠方の山地を買うことは考え物であろう。
兵庫建設は記念館の建設を断った。

30日
大阪クリスチャンセンターに於いて、賀川劇について協議会あり出席した。今晩は何の意見も述べなかった。本月末までに何回も委員会を開く予定だとのことである。木本氏はじめ御苦労様である。

31日
四条畷の山地を買収したので、これの支払い・登記等について、大阪に出張した。
暑い最中、田舎道を歩き回った。大川氏の案内であったが、大川氏もご苦労千万1円の利益も得るものでないのに、全くイエス団のためである。


9月
1日
二百十日であるが、好天気で雨風の心配のない1日であった。
尚、農林省は開国以来、嘗てない大豊作を報じている。7年続きの豊作である。農業技術が進み、農薬・肥料等々により、昔のような不作もなくて済むのかも知れない。有難い事である。
関東大震災記念日でもある。大地震はあっても、僅かの損害で済ませる準備と訓練が大切である。
久仁子を病院に訪問した。これが病人であろうかと思われるほどであるが、医者は矢張り病人であるという。どうして病気したのであろうか。これが防止も方法のありそうなものである。

2日 
丸山中学校長と教頭に、久仁子の病状に就いて報告し、礼を述べた。
本日20日までは賜暇で、それから先を欠勤にするとのことである。
彼が早く全快し、結婚か勤務の出来る様になってもらいたいものである。

3日
礼拝出席。

4日
午前中、神視。
大正3年、僕より涙ながらの話を聞いたとの事であり、其の後、垂水の聖書学校に学び、聖書協会で20数年販売係りを務め、現在伝道の応援をしていると言う渡辺氏が来園し、種々と昔の物語をするが、思い出せない。僕も愈々老いたのか。

5日
午前神視に、午後イエス団に在勤した。
財団法人イエス団及び社会福祉法人イエス団従事員の年金制度確立の為、原案を作成した。
年金の支給規定よりも、年金の基金をどれ程積み立てるべきかの、算定基礎資料を作ることに時間を要した。然し、これでイエス団関係の職員に、ひとつの安定感を与えうるであろう。
イエス団がこれを確立する事に依って、他の団体もこれに習ってくるであろう。社会福祉事業従事者の福音となることであろう。

6日
病院を訪れ、久仁子に面会した。
彼は昨日から世界が変わった感じがする。また今まで何事でも二つに考えられたが、それが一つになったといい、院長もよくなったと証明された。
但し、院長はこの調子が続くか、又悪くなるか保証は出来ないと、慎重な条件がつけられた。兎に角、入院以来始めての顔つきであり、当人も喜んでいた。感謝である。
永井君との懇談の席を何処にするかと求めていたが、雲内の八幡神社の社務所を借りてもらうことになった。10畳に8畳の座敷で、神戸を一目に見おろす事のできる申し分のない、静かで明るくて広くて、結構な部屋である。有難い事である。

7日
イエス団の研修会場について、金比羅山を見に往った。こんなよいところがある事を、長い間神戸にいて気がつかなかった。
ユースホテルであり、修養会には最適である。料金も安い。

8日
5時、YMCAに於いて財団法人イエス団理事会を開催した。土地買収、財産管理、修養会、年金に就いて協議した。

9日
永井君が8時三宮に着くので、家内と二人で出迎え、3人で病院を訪問し、雲内の八幡神社の社務の二階座敷で4人が色々話し合った。
久仁子が快方に向かっていて、もう峠を越えているので、共に有難く思うた。
永井君は、10月30日結婚式予定で準備を進めたいといってくれた。久仁子も喜んでいる。

10日
礼拝に親子3人が出席した。夜は、信仰第一と題して自分が奨励した。
日中は、岸本君の住宅につき相談した。

11日
竹中訪問。丸山(仮名)来団。高芝弁護士訪問。神視出勤。
協同牛乳の後始末がまだ出来ない。丸山(仮名)の言を信用する事もできず、早く解決のつくことを願う。

12日
昨夜、吾妻通6丁目に火災があり、罹災者35,6名がイエス団に流れ来て宿泊した。お気の毒である。保育は停止になった。
罹災者は往くところがなく、金もなく、持ち物は焼失しているが、イエス団にながく止まってもらう事は勿論出来ない。
区役所の市民課長は見舞いには見えたが、市からの金は個人に1000円、二人以上の家族に2000円で、品物は独りに毛布1枚で、それ以上は何物も出ないという。
明日13日1時に、金と毛布を支給することになっているが、果たして一同が出て行くかどうか疑問である。

13日
丸山中学校の教頭が来宅になり、久仁子の辞職願に就いてである。
退職と同時に健康保険も無効になるとか、後4日ばかりの入院である。何とか成らないものか。
火災の罹災者は130人となった。市より金一封、右近市会議員より世帯道具類バケツ一杯、市と日赤から毛布、イエス団から米と缶詰、などを支給し、全員がここから出て行った。
新川の不良住宅の完全な改良は何時か。不良住宅を残しておく事は、犯罪の巣を残してあると同然である。

14日
七福相互を訪問し、寄付の承諾を得た。相互銀行関係で25万か30万まで寄付するのであろう。
六甲信用を訪問したが白石理事長は今日も不在であった。
県の信用組合協会に往ったら白石理事長がいたので、記念事業に対する寄付の依頼をしたら、他の方面の寄付額とにらみ合わせて応分の寄付をする、他所より多くしなければオッチョコチョイといわれ、少しだとけちん坊といわれる。但し坊主には絶対にしない、賀川先生のためだから、との挨拶であった。
七福の下さんの紹介で、日毛にも専務を訪ねて寄付を依頼した。
修養会場を村山牧師と二人で見に行った。YMCAにも往き、今日はよく飛び回った。自動車があるので能率が上がる。用事の多い者には、自動車は経済的であり決して贅沢でない。

15日
台風の予報が出ている。18号は、範囲が広くて強いと、薄気味の悪いニュースである。

16日
台風で欠勤した。雨風がひどく庭の松が倒れ、板塀が全部倒壊した。畑は池となった。10年に1度は、大きな天災があるものと考えなければなるまい。対策のないのが愚かである。
3時から停電で、ラジオもテレビも役に立たず、新聞も夕刊は配達してくれず、被害の程度が全く不明で、ただ罹災者が沢山出たであろう予感がする。

17日
礼拝欠席。被害の応急策で疲労した。然し、まだもう一日かかっても片付かないであろう。村山牧師と神谷長老とが見舞いに来てくださった。

18日
今日も欠勤して後片付けをしたが、未だ終わらない。

19日
前日に引き続き、後片付けであった。然し、棚も修理し、倒れた樹も引き起こした。梅谷の手伝いがあったので樹は起きたが、枯れはしないか心配である。
久仁子の結婚式を10月30日に挙げるように準備をしてくれと、利彰氏から手紙を寄越した。久仁子の快復は有難い。
妻は肋骨が痛むといい、疲れたとこぼしている。
キリスト新聞から、賀川全集について座談会を開くから、是非出席して欲しいと依頼して来た。25日午後3時である。出席の返電を打った。

20日
共栄火災訪問、友社長に面会。
神視の給料日である。神視に出勤した。台風での損害が2万円程度、或いは5万円もかかるかも知れない。
久仁子の結婚式については、クリスチャンセンターに申込みをした。

21日
丸山中学校長を訪問し、久仁子の辞職願を提出した。多分9月30日限り退職となるのであろう。
彼は健康で勤務可能と考えていたであろうが、病気の為遂に退職することになった。主は彼の上にも、御旨を施し給うのであろう。
本多氏と面談する為、花隈に往ったが不在であった。
緒方兄は、24日の夜行上京の便のために、銀河の寝台券を買い求めて連絡してくれた。有難い。疲労を覚悟していたが助かった。帰りは仕方がないであろう。日本の交通も不便なものである。必要な時は何時でも切符の買えるように、早く準備してもらいたい。

22日
今日は台風の後片付けの疲労が出て来て、何だか全身が重苦しい。

23日
永井君が来宅。久仁子の外泊を初めて許された。ずっと快復した。医師からも10月30日の結婚は宜しいと認められた。

24日
礼拝出席。銀河で上京。

25日
キリスト新聞社の主催で、賀川先生の著書についての座談会に出席した。
西尾民社委員長も出席された。古い昔話に花が咲いた。
武藤社長曰く、賀川の伝記で横山氏の書いたものは、マルコ伝であるがヨハネ伝がない。誰が書くかと。
自分が当然書くべきであるが、自信がない。然し、ヨハネならずとも、ペテロやヤコブ書は書かなくてはなるまい。家事を早く片付けて、伝記にかかりたいものである。
夜、理事長宅に一泊した。理事長、純基氏、杉山健一郎氏、菅沼氏と自分とで、賀川家の財産管理、イエス団と雲柱社との関係、雲柱社の将来のあり方などに就いて懇談した。

26日
帰着。

27日
久仁子を病院に見舞った。次第によくなっている。感謝である。
神視とイエス団に出勤した。

28日
太陽海運の庶務課長と村山、武内が記念事業について懇談した。
課長は話好きで、海運界の実況を1時間ばかり話してくれた。毎月1000万円の利子を払っているという。戦争で船を失い、政府は保証もせず金融で金利を取るとこぼしていた。
協同宿泊所を見舞った。床上1尺の高潮で55万円の損害があったという。財団から9200円の助成金を持参した。
村山牧師が、自動車の運転をして飛び回るので、外交はとても便利であり能率的である。

29日
3時、宝知院に於いて保育に関し協議した。共同募金についてと、運営で赤字に関すること、就業規則を設けること等が主なる用件であった。
吉村姉が来園し、坂出の改築についての相談があった。約100万を要するとのことである。計画書を提出するよう進めた。

30日
大阪朝日新聞会館、賀川劇、保育園職員8名が全員揃って観にいった。
賀川の少年時代が余りに長すぎる。全4幕の半分も妾の子で悩んでいるのは何うか。賀川がキリスト愛の実践に努力した点を、もっと多く現した方がよいと思う。
滅多に劇化する事が出来ないのに、大正7年の米騒動で打ち切っているのは惜しい。全生涯を通じての方がよくはなかったかと思うた。

    *      *      *      *

 この武内日記は、昭和36(1961)年で、ほぼ半世紀も前のものである。次回で最終回となる。
 現在刊行準備中の武内勝口述書「賀川豊彦とボランティア」新版は、この日記より5年前のもので、いまその校正作業を行いながら、その口述の「歴史性」を感じさせられている。

 補記 上記の新版は、予定通り神戸新聞総合出版センターより刊行され、現在神戸の書店には並べられており、書店注文が可能である。
  
        (2009年9月27日鳥飼記す。2014年3月21日補記)


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