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賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(60)

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   賀川豊彦と武内勝:ふたりの役柄関係   

 今回から再び、賀川夫妻から武内に宛てられた書簡を取り出して置きたい。

 愈々「賀川献身」の日ーー1909(明治42)年12月24日ーーより「100年記念日」(2009年12月24日)が目前となった。新しい賀川記念館も完成間近である。

 豊彦は「葺合新川」での「新しい生活」をはじめて、ほぼ初期の段階から、その71年の生涯を閉じるまで、途切れることなく、歩みを共にした稀有の「友」が、いま取り上げている「武内勝」であった。

 豊彦は、神戸時代初期のあの米国留学の時より、神戸の留守を、すべて武内に託した。

 武内は、賀川の米国留学の間、それまで賀川が受けていた、マヤス先生などからの経済的支援を一切断り、青年たち17人が「共産生活」を試みており、武内は自ら「生涯のうちで、あの時が、最も愉快な時であった」と述懐する。

 あの3年足らずの期間を武内は「独立イエス団」と称して、大きな実験をかさねて賀川夫妻との再会を待ったのである。

 そして賀川夫妻が再び新川に戻り、労働運動や農民運動、そして救済運動や消費組合運動など開拓的な諸活動を繰り広げ、1923(大正12)年9月1日の、あの関東大震災を契機に、賀川夫妻などの仲間たちが神戸を離れて震災救援活動に打ち込んで行った後、神戸イエス団の働きの中心となったのは、専ら武内勝であった。

 賀川豊彦にとっては、同時にまた、生涯を貫いて、「新しい生活」をはじめた「神戸」はつねに、「出発の場所」であり「帰る場所」「帰りたき場所」であったことも、武内の証言においても、良く知られている事である。

 豊彦はすでに神戸時代、特に留学から帰国後の賀川は、国内はもとより世界を股にかけての活躍が続くのであるが、賀川は神戸の働きを事実上責任を担い続け、武内はその指示を受けつつその活動を支え続けたのである。賀川は神戸の働きを常に気に懸けながらの、疾風怒濤の東奔西走であった。

 そのことを示す二つの書簡を、次に取り出してみる。

       *      *      *       *

 一つは、東京上北澤から、西宮一麦寮の武内に宛てて、昭和18年3月16日投函された速達便で、「賀川原稿用紙」2枚に記されている。

                              武内宛賀川の書簡封筒表紙

 その文面は、

       武内勝様
       謹啓 来る三月廿七日(土)神戸イエス団財団法人理事会
       並びに財団法人愛隣館理事会及び評議員会を開いてくださ
       いませ。各方面に通知願います。
       時間はご都合により午後1時からでも、或は少し遅くても
       結構です。食事が出来ないでしょうから、時間は都合よく
       ご配慮願いあげます。
       又、廿八日(日本復活節)には、朝神戸イエス団にて礼拝を
       致します。
       又午前十時の礼拝を大阪聖浄会館 夜7時大阪四貫島にて
       各々礼拝説教を致しますから電話にてご通知願います。
       雲柱社の理事会は本日無事終了致しました。右にお願
       いまで
        主にありて                
                            賀川豊彦 
       尚、神戸イエス団報告書御作成願い上げます。
       また予算も作成願い上げます。

       
          武内宛の賀川の書簡


        *      *      *      *

 もう一通は、同じく東京上北澤から、西宮一麦寮の武内に宛てられた速達のハガキである。文面には日付がないが、消印から、昭和20年3月2日に投函されたことが判る。この後、賀川は5月27日、反戦並びに社会主義思想の容疑で、神戸相生橋署に留置されるのである。

 その文面は、

      冠省 小生こと来る三月十一日に西下いたし、愛隣館
      及びイエス団理事会を開催いたしたく存じて居ります。
      十一日午後二時頃、愛隣館で開催しては如何でせうか?
      ご都合伺います。愛隣館又、イエス団の予算及決算書
      を御作成願い上げます。
      右は御急ぎ御願まで 
                           賀川豊彦


       *      *       *       *

 武内は、初期段階ら一貫して、独立した職業人である。自らの日々の仕事をこなしながら「救霊団」「独立イエス団」「神戸イエス団」の働きに参画した人である。

 賀川豊彦が神戸を離れて後も、ここの牧師は賀川であったが、長期間に亘って武内が、信徒伝道者として「礼拝」「祈祷会」その他の役柄も、誠実に担い続けたのである。その日々の一端は「武内勝日記A」(昭和2年~4年)を閲読いただいた通りである。

     (2009年10月7日鳥飼記す。2014年3月25日補記)

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