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賀川豊彦の畏友・武内勝所蔵資料より(95)

  
   「賀川豊彦のお宝発見」最終回  

長い間密かに願い続けてきた武内勝氏の貴重な日記の閲読が、ご子息の武内祐一氏の御厚意で、「賀川豊彦献身100年記念」の本年(2009年)春、許されることになった。

私にとって「武内勝」というお方には特別の思いがあった。生前一度だけお会いしご葬儀が初仕事だったということもあるが、一度だけあった武内さんの一言が、ずっと心の中に消えないからでもあった。「例えからだは弱くても、志さえあれば、大丈夫だから」というあの励ましの一言である。

武内祐一氏は少し先輩になるがほぼ同世代である。1966年春から2年間、神戸イエス団教会での修行のときから現在まで、福祉・医療の関係でとぎれることなく交流が続いてきたが、遂に切なる願いが叶えられ「玉手箱」をふたつお預かりする運びとなった。その後の経緯はこれまで記してきたとおりである。

我家にお預かりしてすぐ、心躍る思いで寸暇を見付けては「玉手箱」の「お宝」を眺め、閲読を開始した。

その朗報を耳にされたのが、共同通信社の伴武澄さんであった。伴さんは、東京プロジェクトの広報委員長を引き受け「賀川豊彦献身100年記念事業オフィシャルサイト」を開設され、「賀川豊彦のお宝発見」という場所を特別に用意して下さった。

素人の慣れない下書きを、ご覧のように毎回、読み易いものに仕上げてアップいただくという、願っても無い幸運に恵まれた。

数年前の伴さんとの不思議な出会いも面白い出来事であるが、それはともかくとして、伴さんの慫慂がなければ、これほど捗ることはあり得なかった。

改めて、この最終回の冒頭に、祐一さんと伴さんに対して、深甚なる謝意を記して置きたいと思う。

    *      *      *      *

写真1 

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これは12月22日の神戸ポートピアホテルにおける記念式典において、賀川豊彦献身100年記念事業神戸プロジェクト実行委員会委員長の今井鎮雄氏から団体・個人に贈られた「第1回賀川賞」の記念品「ともしび」(松沢栄一制作)
である。

 思いもかけなかったことであるが、受賞者のひとりに選ばれ、表彰状とこの素晴らしい記念品をお受けする喜びを与えていただいた。慣れない事で戸惑いもあるが、祐一さん所蔵の「お宝」を、こうして100回近くもこのサイトで紹介できた御褒美なのであろう。重ね重ねご両人に御礼を申上げたいと思う。

    *      *      *      *

 公開できた中で最も注目させられたのは、「武内勝日記」のA(昭和前期)とB(最晩年)であった。これは武内氏の人柄と日常を知る一等資料となった。「手帳」に残された戦後のメモも貴重であるが、本サイトでは殆ど紹介できなかった。

 「玉手箱」に収められていた「お宝」には、120通近くもの武内勝宛の「賀川夫妻からの封書・葉書」が残されていたことも驚きであった。私にとってこれは、まさしく予期せぬ「大発見」であった。

一部を除いて、このサイトでほぼ紹介することが出来たが、改めて武内氏と賀川夫妻とが「同時代の同労者」として「苦楽を分かち合う間柄」であったかを知る、得がたい基礎資料であった。

書簡類も失われてしまっているものも多いようであるが、よくこうして「玉手箱」に遺していただけたものだと、祐一氏に深謝している。

   *      *      *      *

写真2

写真2091227book

 これは、所蔵資料の中にあった4冊の文書である。400字詰め原稿用紙にペン書きされ、こよりで綴じられている。4冊とも「武内先生に――」として届けられている。

 筆者は「工藤」と書かれ、当時30歳代と思われるが、北海道小樽で毎日新聞社会部の記者として、農民運動や労働運動にも関与し、小林多喜二とも深い関係を持つ人のようである。(文面に「工藤豊八」とあるので、これがお名前かも知れない。)

 北海道で賀川豊彦を知り、神戸のイエス団に飛び込み、武内のもとで日雇労働をしながら執筆活動を重ねている、小説家志望の文士という印象を持つ。

 因みに第一冊目は、「武内先生に―。この一編は、私の最近の心の過程(プロセス)です。一応、目を通して頂きたいと思ふ。」(原稿用紙42枚)

 第二冊目は第二編で、「武内先生に―。魂の彫刻を語る―散文的に―生活と芸術の統一性―一つの小さな喜びの歌」(原稿用紙13枚)

 第三冊目は第三編で、「武内先生に―。春と花の心を語る―血と光の真理を求めて―只、一つの道、生命線―人生の未完成交響楽」(原稿用紙13枚)

 第四冊目は第四編で、「一つの果実。(一)ルンペン哲学―能動的な精神―死線を越えて 芸術に関する覚え書き―序論―賀川先生の芸術の統一性―無名時代の地下工作―メカニズムと芸術の統一性―芸術の真実性と商品価値―芸術への展望 書きたい構想―再び、反賀川派について―イエス団正反合の統一性―指導者に関する私見―私の決意 労働者の問題―メーデーを中心に―パンと魂の一元論―マルクス学説への反論―ラスキンのベニスの石 農村のその動向―村井の農民座談会―行政の県会地下工作―堀井農村道場の再吟味―農村青年の苦悶―自然美と人工美 イエス団―25年の基礎工作―参考意見」

以上四篇が残されている。

ご自分は『武内勝伝記小説』を書ける自信をもっている、と記すほどに、武内勝への深い尊敬の思いを、文面いっぱいに滲ませているドキュメントである。

一つだけ、紹介しておこう。

「武内先生の弟子になると、人生が愉快になれると信じているもんだから」と書いて、工藤は日雇い労働の仲間たちに、次のような歌をつくっている。

草津節で―
1 神戸イエスに、一度はおいで、ドッコイショ
  武内先生は、コレア、ニコニコ顔よ、チョイナチョイナ
2 新川幼稚園は、立派な所、ドッコイショ
  阿南先生は、コレア、チパパと踊る、チョイナチョイナ
3 神学校の松本兄弟、ドッコイショ
  神の福音に、コレア、泡を飛ばす、チョイナチョイナ
4 お医者さんなら、芝先生に、ドッコイショ
  恋の病を、コレア、なほして貰ひ、チョイナチョイナ
5 長田に行くなら、河相さんの所、ドッコイショ
  日曜学校で、コレア、番町の光、チョイナチョイナ
                        (第二冊目5枚目)

ともあれこの作品は、じっくりと閲読をさせて頂きたい。
工藤さんはその後、どのような歩みをされ、どんな作品を書き残されたのか、興味津々であるが、今のところすべて不明である。

    *      *      *       *
 
写真3

写真3091227glasses

 これは、遠近両用の黒色のまるい縁取りのめがねで、武内勝さん愛用のものである。めがねはいつもこれであったようである。

 このめがねは、現在神戸文学館で開催中の企画展「賀川豊彦の文学」にお持ちして、展示していただくのも良いかも知れない。
展示資料には、賀川豊彦から中山昌樹(明治学院での同級生、ダンテ研究家、牧師)宛ての手紙と共に、このたびサイトで紹介してきた賀川豊彦・ハル夫妻から送られた武内勝宛の手紙・絵葉書などが、初公開されている。

2010年、年明けには次の記念講演も予定されている。
1月23日「現代世界経済と賀川豊彦」(滝川好夫)、2月20日「賀川豊彦と文学・神戸時代」(義根益美)、2月27日「賀川豊彦の贈りもの」(鳥飼慶陽)、3月13日「賀川豊彦の文学とイエス」(大田正紀)。
いずれも午後2時から3時半。文学館へ申込みが必要である(078-882-2028)。

    *      *       *      *

写真4

写真4091227

この写真は、前回の大岸夫妻のアルバムにある1枚で、うっかり掲載し忘れたもの。
アルバムには「昭和23年3月 在園児」と記されている。
長田区四番町にあった「天隣館」で、昭和21年に開設された「神戸市立長田保育所」の看板がある。

ところでよく見れば、斉木ミツル先生の後ろの看板には「日本基督教団 神戸生田川・・」と書かれているように見える。
昭和20年には、神戸空襲によって葺合新川のイエス団の建物は、すべて焼失した。そのため昭和24年に再建されるまでは、この長田の「天隣館」が神戸イエス団の本部の場所も兼ねたともお聞きしたことがある。
ならばこの看板は、焼失を免れて、ここに掲げられていたのだろうか。それとも「日本基督教団 神戸生田川・・」は間違いなのだろうか。
ともかく、この看板のある写真は初見である。

と、ここまでは昨日夕方までに書き上げていた。
やはり疑問を残して最終回を閉じるのはどうかと思われたので、昨夜(クリスマスの夜)河野洋子先生にこの疑問を電話で尋ねたところ、早速に大岸とよの先生と近藤良子先生に連絡され、その結果を教えて頂いた。そして神戸イエス団教会の93歳の最長老:緒方彰さんに聞いてみれば、との助言を受けた。
そこで今朝、電話で緒方さんのお話を伺うことができた。

皆さんから教えて頂いて明らかになったことは、昭和16年6月に日本基督教団が成立した時、それまでの神戸イエス団の宗教部としてイエス団教会あったものが(賀川豊彦をはじめ武内らは、当初より「神戸日本基督教会」に属していて、その伝道所に位置づけられていた如くであるが)、「イエス」とか「キリスト」という標記を禁じられたために、戦時下は「(神戸)生田川教会」と名称を変更し、敗戦後元の「神戸イエス団教会」に戻ったようである。

緒方氏さんによれば、10年前既に「神戸イエス団教会90年史」が作られ、そのあたりの経緯も記録されているそうである。何とも迂闊なことで、それさえも未見であった。正月明けには、是非それも拝見させていただけるものと、楽しみにしている。

  *      *       *       *

私たちの場合、1968年以来「在家労働牧師」としての実験をはじめて40年あまり、神戸市長田区番町というこのまちでモグラのような暮らしをしてきたが、その期間がたまたま、部落問題の解決という大きな課題で激しく動く、時代の渦の只中に遭遇したことから、まちの人々と共にその取り組みに没頭して、あっという間に今日まで来てしまった。

1995年1月17日の阪神淡路大震災の時は、すでにその課題はほぼ目途をつけた段階であったが、多くの困難を乗り越えて、さらにいま新しいまちに甦ってきている。残されていたかつての壁もなくなり、当時の景色もすっかりなくなって終った。

そうした中で、このサイトで連載させて頂いたこの作業は、私たちが歩みを始める1968年以前、まち自体が急激な変貌を遂げる前の大切な歴史を、改めて学ぶ機会でもあった。

それは、賀川豊彦とその仲間たちの足跡をたどる、限られた歴史ではあるが、長田区五番町の「友愛救済所」として、四番町の「天隣館」における保育所や学童保育として、さらに三番町の「神視保育園」「天隣乳児保育園」として、現在まで黙々と密やかに、歩んでこられた先達たちの働きのあったことを学ばせて貰う事ができた。

本年(2009年)は、21世紀に相応しい素晴らしい賀川記念館が完成した。そして来年4月には待望の「賀川ミュージアム」の開設を迎える。
武内祐一氏によって大切に保存されてきた貴重な所蔵資料が、新しい時代の歴史をつくる若い人々の記憶の中にしっかりと届いていくように、今後も微力を傾けたいと思っている。

伴さんとは恋人でもあるまいに、毎日のようにメールのやり取りを重ねての「賀川豊彦のお宝発見」の連載であったが、更なる飛躍のための一服ということで、再会を楽しみにしながら、ここで幕を下ろす。
ありがとうございました。

  (2009年12月26日記す。鳥飼慶陽)

以上、95回にわたって、2009年の「賀川豊彦献身100年記念事業オフィシャルサイト」に長期連載させていただいたドキュメントを、いくらかの補正を加えながら、5年ぶりに本ブログに再掲してきました。オフィシャルサイトではプロの技でしたが、ここでは全くの素人の仕事になりましたが。

ここでは引き続いて、「KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界を訪ねて」を連載していきます。これも上記「オフィシャルサイト」で連載され、現在も伴 武澄氏のご厚意でご自身のサイト http://K100.yorozubp.com/ において閲読可能になっているものです。できればこれも、いくらかのに補正を施しながらすすめてみたいと思っています。

   (2014年6月4日補記)



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