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KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(4)

新聞記事

    2001年5月1日朝刊 北勢(広域三重版)

   第4回 源治郎夫妻は伊勢の人
 
冒頭に収めたものは、三重大学の尾西康充先生が執筆された2001年5月1日付けの「中日新聞」。「みえの文学誌58」に「吉田源治郎」が大きく取り上げられている。

源治郎の幅広い働きを、多くの資料に当たり、92年にわたるその生涯を簡潔に纏めておられる。縮小しているので判読が難しいかも知れないが、全文を読み通して頂ければ有難い。(本号の末尾にテキストにして取り出して置きました。)

 「みえの文学誌」とある如く、源治郎は「三重の人」「伊勢の人」である。
1891(明治24)年10月2日、父・吉田長兵衛、母・ゆきの長男として生れた。賀川豊彦は1888(明治21)年7月10日の生れであるから、源治郎は賀川より3歳年下になる。

源治郎には、5歳年下の妹で1896(明治29)年生れの「なつゑ」がいる。
彼女は「宇治山田市常盤町に生まれ」「大正6年7月31日、東京市で永眠した」「彼女に与えられた此世の生涯は只20年を少し越した許りで人生の正午にも達せずして彼女は逝いた」と、兄・源治郎は、愛する妹を悼んで「又逢ふ日迄」という文章を綴った。

内村鑑三の「死よ爾の棘は安に在るや」と題する「葬式に臨みて語りし説教」と共に、「なつゑ」の写真を入れた、源治郎にとって特別の作品である。このことに関しては、内村との関係等、回を改めて取り上げて置く積りである。

尾西氏の新聞記事には、源治郎は三重県「度会郡宇治山田に生まれる」とある。
源治郎の書き残している自筆「履歴書」では、少し詳しく「本籍 三重県宇治山田市宮町百〇五」と書いている。(「宇治山田市」は三重県南東部にあり、1955(昭和30)年に「伊勢市」と改称されている。)

続いて記事には、源治郎は「8歳のとき父が亡くなり、厚生小学校を卒業した後は奉公生活を余儀なくされる。」そして何が機縁となったのか彼は、「岩淵町にあった山田講義所の日曜学校に通い、キリスト教に親しむ。現在の日本キリスト教団山田教会である。当時は、北村透谷や島崎藤村らと親交のあった福井捨助が伝道師として来ており、会堂を建築するほど教勢が盛んであったという(冨山光一『山田教会史』)」と記されている。

今回は、源治郎の若き小中学生時代と、奇しくも同郷で同じ講義所で学び、後に良きパートナーとなる「間所こう」の若き日のことを訪ねて見たい。

『常盤幼稚園七十年史』(1987年)と『伊勢の伝道・山田
教会の歴史』Ⅰ・Ⅱ(2005年、2006年)のこと

ところで、尾西氏が参照されている<冨山光一『山田教会史』>は手元にはないが、冨山氏が生前に書き下ろした標記の数冊の労作があるので、ここでそれに目を留めておこう。

現在の山田教会付属の「常盤幼稚園」は、1913(大正2)年にミス・ライカー宅で産声を上げ、1941(昭和16)年にライカー園長が敵国人として拘禁され、冨山光慶氏が2代目の園長を引き継ぎ、冨山光一氏は1950年(昭和25)年に常盤幼稚園の主事に就いている。そして1960(昭和35)年4月より、山田教会の牧師並びに常盤幼稚園の園長に就任した。

その後30年近く経て、1987(昭和62)年になって、念願だった『常盤幼稚園七十年史』を、関係者と共に纏め上げるのである。これは、200頁を越える大型上製の、写真満載の豪華な作品である。
冨山氏は、さらに最晩年の1990(平成2)年3月、牧師を引退して2年後であるが、『伊勢の伝道・山田教会の歴史』の執筆を開始するのである。

1999(平成11)年12月までの7年半、意欲的に書き続けたが、惜しくもご高齢のため未完となった。冨山氏は2004(平成16)年4月、90歳の生涯を閉じるのであるが、翌2005年と2006年に分けて『伊勢の伝道・山田教会の歴史』Ⅰ・Ⅱ(以下『歴史』と略す)として、640頁にのぼる大著が、編集委員会の手によって、見事に完成されたのである。この大著は、普通の教会史とは一味違って、実に面白い読み物に仕上げられている。

第Ⅱ巻の「あとがき」には、第Ⅰ巻を読んだ感想として、こんな便りが寄せられていたと言う。
「本書はユニークな歴史書です。・・特有のユーモアが込められ、笑いがこみ上げてくるようなエピソードなどによって・・妻も笑いながら楽しそうに読んでいました。」

この『歴史』には、源治郎のことも「間所こう」のことも、度々登場するのである。
先の新聞記事で尾西氏が、源治郎は「8歳のとき父が亡くなり、厚生小学校を卒業した後は奉公生活を余儀なくされる。岩渕町にあった山田講義所の日曜学校に通い、キリスト教に親しむ。」のところを引いたが、この『歴史』によれば、源治郎は厚生小学校時代から日曜学校に加わっていたようである。

講義所では、「英語と音楽、特にフルートの演奏を教授して人気があった。・・また空き地を借りて、テニスコートを設けてその指導をした」とも書かれ、小中学生にも大変魅力があり「集会所には若者たちが溢れ」ていたようである。

特に尾西氏が新聞で紹介している異色の伝道師「福井捨助」は、1907(明治40)年秋に子どもを5人引き連れて赴任して、5年間ここで過ごしている。
源治郎は福井伝道師の赴任する前、同年7月7日、ヘレフォード宣教師より洗礼を受けたことが記されている。源治郎16歳のときである。
福井捨助の在任中、講義所は大躍進を遂げ、「会堂の建築」を求める機運が高まり、毎日早朝から、野外で各自熱心に祈ったことなど、吉田源治郎たちは後年、何度も冨山牧師に語り聞かせたと言う。

源治郎にとって忘れることの出来ない恩人となるミス・ライカー婦人宣教師は、源治郎が洗礼を受ける前年(1909年)9月に、ここに赴任して来ていたのであるが、先の尾西氏の新聞記事には、源治郎は「J・ライカー婦人宣教師による学資援助を受けて、三重県立第四中学校(現・宇治山田高等学校)に進む。五年遅れの入学であった。」とある。

岡本榮一氏が作られた「年表」(第2回に掲載)の1913(大正3)年の項には、「家計を助けるため本屋の店員をしていたが、祖母とJ・ライカー宣教師の支援により5年遅れで入学、学業優秀にて特待生(学費免除)となり中学を卒業」と、その間の経緯が詳しく記されている。
そして冨山氏の『歴史』では、次のようなエピソードなども記述されている。

「当時山田伝道教会(註:この時は既に念願の教会堂が完成し「講義所」から「伝道教会」と改称されている。)にはたくさんの青少年が集まっておりました。中にはすでに受洗しているものも数名あり、中学校で上級生だった山本喜蔵は日曜学校の先生であり、河村斎美、吉田源治郎はその生徒だったのです。そして、山本が卒業して上京した後、この二人の内、人手も足りなかったのでしょうか、先に受洗した吉田源治郎が先生になり、河村斎美がこともあろうにその生徒になったのです。二人は共に県立宇治山田中学校(註:当時は「三重県立第四中学校」)の同級生でしたが、やはり先生と生徒です。やんちゃ坊主の河村が吉田に真面目に質問をした話があります。
「先生、僕でも一生懸命にお祈りをして、真面目にやったら、神様になれますか」
質問者は真剣です。真面目な先生はこの途方もない質問に対して、しばらく黙っていたそうですが、徐に口を開きます。
「それはなれる」
河村談「わしはなー、それから一生懸命になって教会の集会には休まず出たし、いろいろお手伝いもしたもんやが、結局あかなんだ」
この源やんと斎やんは家が貧しくて、共に中学校進学はできなかったのでした。当時中学校に行ける子どもは少なかったのです。小学校卒業後、源やんは書店の小僧に、斎やんは山田中学校の給仕になったのだそうですが、この二人の向学心を知ったのがミス・ライカーでした。
「宜しい。私が出しましょう」と、月々の学費を出そうということになり、二人は一緒に宇治山田中学校に入学したのです。ところが二人とも成績抜群で特待生になり、月謝は免除されたのでした。そして中学校卒業と同時に長山牧師の推薦で、先輩山本喜蔵の後を追って、明治学院神学部に進んでいるのです。
またその頃、女学生の中にも神学校に進む人たちがいました。後日安田忠吉牧師夫人となる水谷かめ、吉田源治郎と結婚する間所こう、釣田敏男伝道師夫人となる今津あさなどです。」

源やん(源治郎)より2歳年下であった斎やん(河村斎美)は、明治学院を卒業後、和歌山の新宮教会に赴任している。新宮教会といえば、1910(明治43)年の「大逆事件」に連座した大石誠之助が長老をしていたところで、文筆家としても知られ、賀川とも関わりの深かった沖野岩三郎の後任として、斎やんは活躍していく。

なお、摂氏が収集された資料の中に、源治郎と斎美が学んだ「三重県立第四中学校」の「校友会」の会誌「校友」第14号(大正2年)と第15号(大正3年)があり、これを見ると、源治郎は生徒の間では年齢も上であったことにもよるであろうが、才気溢れる活躍ぶりが随所に見て取れる。

 たとえば第14号では、「吉田伶秋」の名前で「我心高原に在り」と題する7頁分の短編が登場している。コピーの関係で判読が困難な部分があり、ここで全文を紹介できないが、この一篇は源治郎の文学的・誌的・思想的な表現の出発点となったものとして、大変重要なものになるように思われる。

この時、源治郎は「雑誌編集部」を引き受けていたようで、初めて下級生1~3年生に限って「懸賞短編募集」というものを募り、多くの応募の中から「秋の曙:1学年 梶井基次郎」「秋の夕:3学年 中山伊知郎」など、源治郎は当選作品を紹介している。

ご存知のように、梶井と言えば、若くて亡くなったが、『檸檬』などで知られる小説家であり、中山も名の知れた経済学者として活躍した人物である。そういえば、源治郎の通ったこの学校の後輩には、映画監督のあの「小津安二郎」なども輩出している。

そして第15号にも源治郎は、「校友会幹事」として「雑誌部」の一員となり、「懸賞作文:論説文」で2等賞を受賞しているようになっている。さらに「雄弁会大会」でも「新時代の曙光」と題して弁じたことも記されており、かてて加えて源治郎は、245名の生徒の集まる「音楽会」で「百合の花」と「すずめのマーチ」2曲を「独奏」し、「ローレライ」などを「独唱」しているのである。

この「校友会誌」には、「大正2年度特待生」として「第5学年 吉田源次郎・河村斎美」の名前が記されており、「第15回卒業生」の卒業記念写真も収められている。
前列に教師たちが並び、源治郎は学生たちのほぼ中央に写っている。(上から2列目の左から10人目)

写真1

源治郎の自筆「履歴書」には「大正3年3月 三重県第四中学校卒業」とされており、源治郎はこの時すでに23歳であった。

源治郎の妻「間所こう」のこと
 ところで、先ほど引用した『歴史』の中には、早くも「吉田源治郎と結婚する間所こう」の名前が出てくるので、ここに「間所こう」が神学校に進学するまでのことを見ておきたい。

 先ず、1969(昭和44)年に書いた「履歴書」には、「本籍 三重県伊勢市宮町106」「明治30年5月12日生」とある。
長女の小川敬子氏が記した資料によれば、「間所こう」は、父・松蔵、母・志免(しめ)の長女として生まれ、弟に「間所兼次」がいた。
(「間所兼次」は後に、賀川豊彦が組合長で源治郎も理事となって、1920(大正9)年に大阪市西区に設立した有限責任購買組合共益社の専務理事として貢献し、惜しくも45歳で早逝しているが、彼のことも回を改めて取り上げて置かねばならない。)

「間所こう」は、源治郎より6歳年下である。「こう」が戸籍上の名前であろうが、早くから「幸」で通してきたようである。1947(昭和22)年に書かれた「履歴書」も「幸」である。勿論「さち」ではなく「こう」である。

 岡本榮一氏の作られた「年表」(第2回掲載)で見たように、源治郎は1984(昭和59)年1月8日に92歳でその生涯を終えるのであるが、「幸」は1991(平成3)年11月20日までご存命で94歳であった。

 その「幸」が、1982(昭和57)年2月28日、西宮一麦教会の礼拝で「思い出」と題する「立証」を行っている。この時、源治郎は91歳、「幸」は86歳であるが、幸いその時の録音が残されていて、西宮一麦教会の40周年記念誌のために原稿化され、『四十年の歩み』(1988年)に収められたのである。
 「伊勢の山田教会時代」のことにも触れられた大変貴重な「立証」であるので、ここにそれを取り出して見よう。

  「私がキリスト教にはじめて接したのは、小学校1年生のとき友達に誘われて日曜学校に行った時でした。SS(註:日曜学校のこと)の先生の温かな優しい態度に魅かれ、それからは毎日曜日、待ちかねるようにして通ったものです。
   伊勢の山田教会にはミス・ライカーというアメリカの宣教師がおられ、私が一時、日曜学校へ行かなくなったときなど、道で会うたびに、「ア、間所さん」とか、「お幸さん」と声をかけては、「この頃、SSに来ませんね、またいらっしゃいネ」とおっしゃいます。恥ずかしいものですから、先生のお姿をみかけると、あわてて横丁へ曲がったりしました。でも、神さまはそんな私をもお放しにならず、また教会へと戻して下さいました。
 13,4歳の頃、木村清松先生が教会の伝道集会のためにおいでになったことがあります。みんなと賛美歌を歌い終わったとき、先生からいきなり、「お嬢さん、前へ出て歌って下さい」と言われました。不意のことで足がすくみましたけれど、勇を鼓して、促されるまま独唱いたしました。そのとき、聖霊の不思議な働きでありましょうか、私という存在が丸ごと神さまにつかまえられた気がして、もう私は絶対に教会から離れられない!と思った次第です。
 長い間、人前でお祈りをしたことのない者でしたが、中田重治先生を迎えての伝道集会のための3日連続の朝天祈祷会第1日目、中田先生が旧約のアカンの罪について話されました。アカンひとりのそむきのため、イスラエルがアイにおける戦いに負けてしまったことを聞き、みんなが祈っている中に自分ひとり祈らないでいるこの私はアカンとおなじではないか、と思い知らされました。次の朝、私は初めてみんなの前でお祈りしました。
 そんなことが積み重なって、信仰が養われて行ったように思います。洗礼を受けたのは1912(明治45)年6月13日、15歳の時でありました。
 幼稚園の先生になることを憧れていましたが、家庭の経済的事情のため果たせませんでした。吉田先生(註:源治郎はこの時、「幸」にとってSSの先生であった)が共立女子神学校ならお金がいらないと教えてくれましたが、家の者は許してくれません。それで3日間、ご飯も食べずに泣いていました。ついに父も根負けしたのか、「お前の勝手にせよ」ということで、最終的に入学がかなえられました。」

 (「幸」の洗礼の日付については、西宮一麦教会の森彬牧師が、1989(昭和64)年発行の「雲の柱」9号で「吉田源治郎先生のこと」を書いておられ、そこには「1908(明治41)年、17歳のときに山田教会で長山万治牧師より受洗」となっている。そして前掲冨山光一氏の『歴史』には「1913年度教勢報告」があり、この年に長山萬次牧師から37名が洗礼を受けており、そのリストの中に「間所こう 14」とある。年齢は数え年であるとされているので、13歳ということになる。今回、吉田摂氏よりお預かりした資料には、ここの洗礼の日付が「1913(大正3)年6月1日、16歳の時」と補正が加えられている。やはりここでは、ご本人の「思い出」を大切にしておきたいと思う。)

ミス・ライカー宣教師のこと
最後に短く、源治郎と「幸」、両人にとって忘れることの出来ない恩師のひとり、「ミス・ライカー」について触れて、次回に繋ぎたい。

記事ライカー

写真2ライカー


  上の写真は、先に紹介した1987年に作られた『常盤幼稚園七十年史』のはじめに、サイン入りで飾られたミス・ライカーである。

 彼女のことに関して殆ど知られていなかったことが、冨山光一氏によるこの『七十年史』並びに『伊勢の伝道・山田教会の歴史』によって、いくらか明らかになっている。
ほんの僅かな経歴であるが『七十年史』の冒頭に、常盤幼稚園「創立者 ミス・ライカー」という、冨山氏の短い一文があるので、それをそのまま紹介して置きたい。

 「幸」とミス・ライカーとのその後の新たな関わりがある。それは、源治郎が1918(大正7)年9月、京都伏見東教会の牧師となり、翌年6月に「間所幸」と新たな結婚家庭をはじめるが、4年後、源治郎が1922(大正11)年9月、米国オーボルン神学校へ留学することになり、一時家族は、実家のある故郷の伊勢に戻るのであるが、そこでミス・ライカーと再会するのである。

そして、ライカーの強い求めに応えて、「幸」は常盤幼稚園で働くことになり、1925(大正14)年秋、源治郎が留学とその後の外国視察を終えて帰国するまで、伊勢で過ごすのであるが、これらの事についてはまた、追って取り上げることになるかも知れない。

 ともあれ、こうして源治郎は中学校を目出度く卒業して、明治学院神学部へ、「幸」は横浜共立女子神学校へと、二人の故郷・伊勢を後に、新しい学びの場へと飛び立つのである。


付記
冒頭に収めた尾西先生の新聞記事は、「吉田源治郎・幸の世界」を訪ねる旅には、私にとって大切な道案内になったもので、ここに改めて感謝すると共に、ここで記事の本文をテキストにして取り出して置きたいと思う。

         ♯           ♯

「中日新聞」2001年5月1日朝刊(北勢:広域三重版)

       みえの文学誌(58)
       吉田源治郎(宇治山田)

                            尾西康充(三重大学人文学部助教授)

        貧困者救援に情熱
        特筆すべきシュバイツァー翻訳

 四貫島セツルメントは大正十四年十月一日に開業した。母体となったのは日本労働者伝道会社、賀川豊彦がロサンゼルスで資金を集めてできた会社である。賀川の主宰するイエスの友会からの後援も受けて大阪市に設立された。
 そお一帯は水利の良い環境にある。淀川と安治川に接し大阪湾に面した地形を生かし、重化学工業を中心とする臨海工業地域として早くから発展していた。財閥系の大工場の進 出によってもたらされた繁栄とは裏腹に、工場から排出される黒煙が空を覆い、労働者が逼塞した生活を営む地域であった。
 セツルメントとは、貧しい人々のいる区域に住み、住民の生活向上をはかる社会活動のことを指す。四貫島の施設では、労働者の無料診療や消費組合、乳幼児の健康指導や訪問看護など、多岐にわたる事業が展開された。そのころ、乳幼児の死亡率は大阪が全国最悪であったといわれる。
 開業一ヵ月後、記念式が行われた。司会は初代館長の吉田源治郎で、最初に「ヨブ記」第一章が朗読された。吉田は社会事業に関するヨーロッパ視察旅行から帰ったばかりであった。
石井十次の岡山孤児院に代表されるクリスチャンの社会活動が国内各地に広がっていた時代である。工場へ出勤する労働者のために四貫島では朝六時から礼拝が行われた。
 ヨブは「完全かつ正しくして神をおそれ悪に遠ざかる人」として知られる。信仰の灯火を掲げ、さまざまな試練をくぐり越えた吉田もまたヨブになぞらえられる人である。以下、吉田の伝記を紹介しよう。
 明治二十四年十月二日、度会郡宇治山田町に生まれる。八歳のとき父が亡くなり、厚生小学校を卒業した後は奉公生活を余儀なくされる。岩淵町にあった山田講義所の日曜学校に通い、キリスト教に親しむ。現在の日本キリスト教団山田教会である。
当時は、北村透谷や島崎藤村らと親交のあった福井捨助か伝道師として来ており、会堂を建設するほど教勢が盛んであったという(冨山光一氏『山田教会史』)。
 J・ライカー婦人宣教師による学資援助を受けて、三重県立第四中学校(現・宇治山田高等学校)に進む。五年遅れの入学であった。他の生徒よりも身体が発達していたため、体育の授業はいつも見学していた。一方、校内の音楽祭ではバイオリンを演奏し、雑誌「校友」の懸賞作文に入選するなど才能を発揮する。ちなみに五学年のとき編集長をつとめた「校友」第十四号の懸賞短文欄には、一年生の梶井基次郎が記した随想が載せられている。
 明治四十年七月七日、ヘレフォード宣教師から洗礼を受ける。中学卒業後、長山万治の推薦によって明治学院神学部に進む。在学中、内村鑑三の集会に通い、教会や教職の権威を批判した無教会主義キリスト教に共鳴する。長らく牧師の資格を取得しようとしなかったのは、その影響からであったという。
 また当時、貧民や労働者の救済事業に取り組んでいた賀川豊彦に出合う。社会の底辺に向けて尽力する姿勢に傾倒し、イエスの友会の結成に参加する。『イエスの宗教とその真理』 『イエスと入類愛の内容』など、賀川の講演や談話を筆記整理して公刊を助けた。その報労として大正十一年、ニューヨークにあるオーボルン神学校に留学する。神学修士号を取得。さらにユニオン神学校やコロンビア大学などで聴講生となる。
 文筆活動における吉田の業績は多方面に及ぶ。特筆すべきはA・シュバイツァーの翻訳を手掛けたことである。『原生林の片隅に立ちて』では本邦初訳を試み(大正十三年)、『宗教科学より見たる基督教』ではシュバイツァーの翻訳書として日本最初の出版に携わった(大正十四年)。
 また、天文学に興味があり『肉眼に見える星の研究』を執筆している。一説によれば、宮沢賢治はこの書に影響されて『銀河鉄道の夜』を創作したという。『勇ましい土師達』 『愛の殉教者ダミエン』など児童文学でも出版物がある。
 決して怒りを顔に出さなかったと、吉田を知る人は語る。牧会をつとめた甲子園二葉教会や西宮一麦教会、馬見労祷教会では多くの会衆から慕われた。その半面、信念を曲げない強さを持ち、社会的弱者へのまなざしを失うことがなかった。つねに賀川の運動を支持し、共に苦難を乗り越え続けたのである。妻・幸の献身的な助力にも助けられながら九二歳で逝去するまで、篤い信仰心にもとづく<静かな反抗>を繰り返した生涯であった。

   (2010年5月9日記す。鳥飼慶陽)(2014年6月8日補正)
















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