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KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(5)

写真1

 源治郎が学んだ頃の明治学院風景 正面は礼拝堂 庭はヴォ-リズの設計
     (『明治学院歴史資料館資料集』第2集、2005年刊より)

  第5回 明治学院時代の吉田源治郎

前回は、吉田源治郎がミス・ライカー宣教師などの支援で、三重県立第四中学校に5年遅れで入学、中学では学業優秀により特待生の扱いを受けて目出度く卒業となったところまでを訪ねてみた。

源治郎は8歳の時、父・長兵衛と死別、夫亡き後、妻・ゆきが母の手ひとつで、源治郎と幼い娘・なつゑの養育にあたるのであるが、源治郎は厚生小学校を卒業し中学に進むまでの5年間、奉公生活を続けながらキリスト教の講義所に通っていたこと等にも、少し言及しておいた。
 
ところで、既に23歳になっていた源治郎は、1913(大正3)年3月、中学を卒業しているのであるが、なぜ彼は、明治学院神学部を志望し牧師になろうとしたのであろうか。その夢はいつ宿ったのであろうか。

前回少し触れたように、彼は1907(明治42)年7月7日、16歳の時に洗礼を受けている。恐らくその前に、源治郎の「大きな目覚めの出来事」「発見の喜び」はあったのであろう。そのことに関しては、彼はどこかに書き残しているはずであるが、今のところそれを探し当てていないので、ここには、冨山光一氏の前掲『山田教会の歴史』を読みながら、たどって置きたいと思う。

この教会から、数多くの牧師や牧師夫人を輩出し、各地に送り出していると言われるが、当時の長山萬次牧師は明治学院神学部の出身であるが、彼の推薦で最初に明治学院神学部へ進学したのは、源治郎の中学の先輩でもあった山本喜蔵であった。

山本喜蔵は、米屋の小僧をして毎日きつい労働をしながら中学校に通い、毎朝早く、中学の制帽をかぶり、米屋のはっぴを着た、奇妙な出で立ちで、大きな声で英語の賛美歌を歌い、大八車を曳いていたという。

そうした日々を送りながら山本は、日曜学校の教師を務め、家族や友人、後輩たちに福音を伝え、いつも真面目で誠実、温厚そのままの人柄で、その後も彼は、深い学識を表に出さず、音楽を愛し、好きな絵を描き、俳句を詠み、誰からも愛せられた人であったとか。

この山本喜蔵に導かれて入信したひとりが、源治郎(源やん)であり、前回紹介した河村斎美(斎やん)らであったのである。


     『明治学院歴史資料館資料集』第2集(2005年)

かくして、源やんも斎やんも伊勢から上京、1914(大正3)年4月、愈々明治学院の学生として学び始めるのであるが、まだこの時、先輩の山本喜蔵も在学中であった。(因みにこの年8月2日、賀川豊彦は米国プリンストン留学のため、丹波丸で神戸港を出帆している。)

今回冒頭に収めた写真は、2005年に刊行された『明治学院歴史資料館資料集』第2集-『明治学院九十年史』のための回想録-」のはじめのところに入れられているもので、当時の学院風景である。

この『資料集』には57名の同窓生たちが寄稿しているが、吉田源治郎も、次頁にある「あのころの明治学院」と題する一文を寄せている。

あのころの銘j学院

これを読むと、源治郎は、井深梶之助ほか錚々たる教師たちの講義を受け、実に真面目一筋に、英語をはじめへブル語やギリシャ語など、神学を学ぶ基礎修得に没頭していた様子が伝わってくる。

豊かな才能に恵まれ、成績も優秀であったため、「1年から3年に編入してもらい、おかげで神学部を1年早く卒業した」ようである。それは単に「同級生諸氏に比し、少しく年上であった関係もあり」ということではあるまい。

そのために、同級生だった桑田秀延(1895~1975)とは「一緒に入学したけれど、私の方が1年早く卒業している」と記している。桑田は卒業後、米国にわたりハーバードなどで学んだ後、明治学院の教授に就くなどして、戦前カール・バルトの翻訳を手がけた人でも知られている神学者である。
(私的なことであるが、高校生の時にキリスト教に触れ、同志社の神学部に進む前、初めて手にした神学書が、桑田秀延の著作で、戦前刊行された相当分厚い『基督教神学概論』という書物であった。理解も届きもしないのに、読み耽った日を思い起こした。)

ともあれ、源治郎の明治学院時代の学びっぷりは、賀川豊彦が9年前(明治38年)、徳島中学から明治学院に進学して学んだ時の様子とは全く違っている。賀川はろくに講義にもでないで、専ら図書館に篭ってひとり読書に耽っていたような「不良学生」?であったのだから。

この『資料集』には、沖野岩三郎や玉置真吉などの賀川に関する興味深い言及もあるが、賀川豊彦と中山昌樹がハリス館の2階から墜落したというエピソードを、熊野かをると渡辺勇助が口を揃えて書いている。よく知られていることかも知れないが、私には初耳で面白いので、ここで渡辺の記しているその箇所を付記して置く事にする。

ハリス刊二階から


   内村鑑三と吉田源治郎

源治郎は明治学院に在学中、当時50歳代後半であった内村鑑三の「柏木教友会」に参画している。
如何なる経緯で内村門下に属すことになったのか、詳しくは判らないが、先に取り上げた源治郎の「あのころの明治学院」の中に、「別科には今村今平がいた」と記しており、この「今岡今平」とは、「内村聖書研究会」の熱心なメンバーで、明治学院神学部の学生時代、源治郎と深い交流のあった人物であった。

今回閲読している吉田摂氏所蔵資料の中に、高木謙次による18頁に及ぶ論稿「内村鑑三と吉田源治郎」がある。これは「内村鑑三研究」第36号(2002年12月、キリスト教図書出版社)に「資料」として入れられている論稿である。

当誌がこの論稿の初出かどうか判らないが、論文の末尾には「本稿作成に吉田源治郎のご長女、小川敬子氏のご協力とご教示を得たこと」への謝意が記されている。

高木氏のこの論稿は、1「内村鑑三の式辞」、2「吉田源治郎と高岡今平」、3「星の研究について」、4「シュバイツァーについて」、5「慈善事業について」というように、これから我々が、はじめて「吉田源治郎・幸の世界」を訪ねる上で、興味津々の主題に関わる大切な格好の道案内となる論稿である。

なお、この論稿は、『高木謙次選集』(第1巻)「内村鑑三とその周辺」(キリスト教図書出版社)にも収録されている。今後参照していく論稿なので、以下本稿では「高木論稿」として置きたい。

ところで、この「高木論稿」の「吉田源治郎と高岡今平」の項を見れば、二人は入学の年に出会いがあるようである。
高岡は、「先年妻子を携えて上京し、明治学院の老学生となりて研究数年」とあることから見て、相当高齢の学生であったようである。

さらに「高木論稿」によれば、内村聖書研究会で初めて大正6年に作成された「教友名簿」には、「東京市外大崎444 学生 高岡今平 同加寿子」と高岡夫妻の名前があり、「東京市外大崎中丸444 高岡今平方 吉田源治郎」の名前もあげられている。
源治郎は高岡の宅に、「同居していたのか、下宿していたのかわからないが、明治学院の神学部に共に学び、共に生活していたことがわかる。」と書かれている。

写真内村鑑三

上の写真は、関根正雄編著『内村鑑三』の扉にある「昭和3年、68歳の鑑三とサイン」のあるものであるが、内村美代子著『晩年の父内村鑑三』に収録されている「柏木教友会名簿 1917年(大正6年)」にも、藤井武・黒崎幸吉・南原繁・田中耕太郎・塚本虎二・矢内原忠雄などと共に、源治郎と高岡の名が収められている。

したがって、源治郎は1914(大正3)年から1918(大正7)年、京都伏見東教会に赴任するまでの間の数年間、内村の聖書研究会に属し、教友会のメンバーの一員であったことが判る。

また、「内村鑑三と吉田源治郎」について一番に取り上げておかなければならないのは、源治郎の妹「なつゑ」のことである。

源治郎が卒業する前年(1917年)、妹「なつゑ」が上京し、東京御茶ノ水高等師範学校で学び始めるのである。彼女は、三重県立女子師範学校を卒業後、地元の小学校の教師を1年勤めた後、更なる勉学のため、母一人故郷に残し、源治郎のいる東京に出てきていた。

「高木論稿」によれば、吉田源治郎は、内村の聖書講義を「数年聴講し、妹を招いていたのである。不幸なことに妹は肺結核を病み(註:肺結核ではなく腸チフスに罹ったようである)、7月31日夕べ順天堂分院にて永眠した。8月2日、暑い夏の日、内村の司式による葬儀が行われた。この翌年、吉田は京都の教会に赴任した。」とある。

当初ここで、「高木論稿」の最初に取り上げられている「なつゑ」の葬儀における「内村鑑三の式辞(「内村鑑三全集未収録資料」)」並びに源治郎による「故吉田なつゑの思ひ出」を含める予定であったが、この二つとも重要なドキュメントであるので、改めて次回(第6回)に収めることにしたい。

「内村鑑三と吉田源治郎」と題する「高木論稿」の後半のテーマは、「星の研究について」「シュバイツァーについて」「慈善事業について」と続いているが、それぞれの主題について二人の間に通じ合っていたと思われるいくつかのことが論じられている。

「KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界」は、その基調において、どうも「内村鑑三の世界」と相性のよいところがあったようである。

例えば、「星の研究について」の項では、源治郎の主著のひとつとして挙げられる『肉眼に見える星の研究』の「序」に、「我国に、一人でも多くの星道楽を生む機縁となるならば」云々の箇所を引用して、内村鑑三も「星道楽」という言葉をよく使ったことや、宇宙や天文に強い関心を持っていたこと等に言及して、吉田源治郎には「内村の影響があったと推測してよいのではないか」と述べている。

また、椚山義次の論文「内村鑑三と天文学―宇宙をのぞく愛(アス)星家(トロフィル)」(「内村鑑三研究」第35号、2001年3月)には、源治郎の著書が宮沢賢治に影響を与えたことに触れながら、「内村の影響も見逃すことの出来ない事実である」ことを、内村の日記などを辿りながら、ご自身の「星覗き」など、随筆風に述べている。

源治郎が明治学院を卒業し、牧師の働きを始める最初の時を、『肉眼に見える星の研究』に打ち込むほどに「星道楽」を自身の事として悦びとするに至ったのか、この事については追って訪ねて見たいところである。

いずれにしても「内村鑑三とKAGAWA GALAXY」という主題は、面白いテーマに違いない。
昨年「賀川豊彦のお宝発見」で取り上げてきた神戸の「武内勝」の場合も、賀川と歩みを共にしながら、生涯を貫いて、内村の『聖書之研究』を愛読し、日々の研鑽を重ねていた事実を知ることができた。

神戸のイエス団関係者の中で、私が神戸イエス団教会の伝道師をしていた頃、辻本四郎という90歳を越えられた牧師がおられ、1968年春、私たちが神戸イエス団教会を辞し、番町出合いの家の実験をスタートさせる折、辻本牧師は、『聖書之研究』の大量のバックナンバーをお祝いとしてお贈り戴き、大感激をしたことがある。

吉田源治郎は、1918(大正7)年に明治学院を卒業し、最初の赴任地・京都伏見東教会牧師に就くのであるが、「高木論稿」によれば、1920(大正9)4月調べの内村聖書研究会の『教友名簿』には源治郎の名前は消えているという。

そしてこの『教友名簿」には、源治郎を内村に繋いだと思われる高岡今平は「在米国」とあり、彼はそこで『聖書之研究』購読者と連携して、熱心に伝道活動に挺身していたようである。

こうして源治郎は、生涯のパートナー「間所こう」との結婚などを経て、賀川豊彦夫妻との出会いと交流が深まって行くのである。
      
    (2010年5月16日記す。鳥飼慶陽)(2014年6月10日補記)




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