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KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(6)



妹さんなつえ
  第三小学校在勤中          三重県立師範学校卒業記念
     (大正5年)                 (大正5年3月)

   第6回 源治郎の妹・なつゑ追悼『又逢ふ日迄』

上の写真は、源治郎の妹なつゑの1916(大正5)年のものあるが、翌年の1917(大正6)年4月、母を独り故郷・伊勢に残し、明治学院で学ぶ兄のいる東京に出て、御茶ノ水高等師範学校の保母実習科で学び始めて数ヶ月、新たな学び舎にも慣れてきた矢先、腸チフスのために、彼女は21歳の若さで逝ってしまった。7月31日夕べのことである。

前回少し触れたように、源治郎も会員として参加していた内村鑑三の聖書講義に彼女も出向き、聴講し始めたばかりのことであった。

8月1日午後、納棺式と火葬、翌朝遺骨を拾い、午後2時半、東京市外静かな柏木の聖書講堂で、内村鑑三の司式による葬儀が営まれた。

葬儀の後、源治郎はひと月も経たない間に、A6版40頁の小冊子『又逢ふ日迄』を作り上げている。
これには、上に掲載した「なつゑ」の2葉の写真(あと1葉、明治35年、7歳の時の可愛い晴れ姿が収められている)、内村の説教「死よ爾の棘は安に在るや」、源治郎の「故吉田なつゑの思ひ出 又逢ふ日迄」がある。

内村は、『聖書之研究』(大正6年9月)の「今年の夏」で「友人の内に病人が多くして多少彼等を慰むることが出来た、二人の死者があった、其一人の葬式を司どった」と記し、『内村鑑三全集』第38巻(書簡3)の内村静子宛にも「昨日は今井館にて吉田ナツエの葬儀を営み候」と書き送っている。(鈴木範久著『内村鑑三日録』第9巻(1913~1917)にもこのことを取り出している。)

「吉田なつゑの葬式に臨みて語りし所」と添え書きのある内村鑑三の説教は、前回取り上げた高岡今平による「大要筆記」として纏められたもので、『内村鑑三全集』には収録されていないようである。

内村の説教も貴重であるが、妹なつゑの一筋の生涯を、明治学院在学中であった26歳の源治郎が、どのようこの「思ひ出」に籠めたのか、愛する妹が忽然と召されて逝ったこの事態をどのように受け止めたのかを知る上で、まことに重要なドキュメントである。

今回は部分的な引用ではなく、可能な限り全体をスキャンして、後世に遺して置きたいと思う。
少し長くなるが、慣れない作業に取り掛かって見よう。本稿は横書きなので、縦書きの文章をパソコン上で読むのは不便であるがご容赦いただきたい。いずれこれはテキスト化して、より読みやすいものにしておく必要がある。

また逢う日まで

1文章

内村説教文章2

文章3

4文章

5文章

6文章

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文章9

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文章19つづき

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文章31

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文章38

    
次回は、源治郎のパートナー「間所こう」の「横浜共立女子神学校」時代の事などを訪ねて見たい。

    (2010年5月18日記す。鳥飼慶陽)(2014年6月11日補正)
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