スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(10)

         イエス伝の教え方表紙

       大正9年(初版)       昭和6年(第7版)


   第10回 京都伏見教会時代の源治郎と幸      

1918(大正7)年3月、源治郎は明治学院を卒業して日本基督京都伏見教会の牧師に就き、学生時代に刊行を目前にしていた源治郎の処女出版『児童説教』を大阪の天王寺にあった日曜世界社より同年6月に刊行したところまで、前回記すことが出来た。

源治郎が最初に赴任した日本基督京都伏見教会とはどんな歴史を刻んで来た教会なのか、彼は何故ここに招かれるに至ったのかなど、今のところ私には判らないが、この教会に赴任早々、吉田源治郎と間所幸とは新しい結婚家庭をスタートさせており、間もなく賀川豊彦との直接の出会いも起こるのである。

以来、賀川との交流も深まり、1922(大正11)年9月に米国オーボルン神学校へ留学のため日本を離れるまで、ほぼ4年間、京都伏見を根城にして活躍するのである。

          源治郎と幸との結婚

第4回で、幸の語った「思い出」(西宮一麦教会『四十年の歩み』所収)を紹介したが、そこで幸は、二人の結婚について、次のような「立証」を残している。


これを読めば、共立女子神学校を卒業した幸は、埼玉の粕壁教会に赴任していたようで、その時、源治郎は幸との結婚の意志を告げている。幸はその時、「父の猛反対」に遭うなか、源治郎の打った、幸宛の一本の粋な電報ひとつで、彼女の「気持ち決まった」のだそうである。「いまの主人を思うと、何かおかしいような気がいたしますが、その頃は主人も若かったですからネ」とも。

 ところで、上記の引用にある結婚式の行われた大正7(1918)年10月8日の箇所に大正8(1919)年6月14日と、後で訂正が行われている。源治郎・幸の長女・小川敬子氏による「悔いなき夫婦」(『大阪の社会福祉を拓いた人たち』(1997年所収)の「略歴」には、幸氏の「立証」の「大正7年10月」が採られているが、本稿2回目に示した岡本榮一氏作成の「年表」には訂正の年月日となっている。もし訂正分が正しいとすれば、源治郎28歳、幸22歳の結婚ということになるのであろうか。

 幸の「立証」でもひとつ面白いのは、花嫁・幸は「ハル先生の紋付」を、花婿・源治郎は「西阪保治先生のフロックコート」を借りて結婚式に臨んでいることである。まるでこれは、豊彦がハルと結婚する時、「着替えのなかった先生が、ハルの持参した羽織袴で式に出た」という武内勝の口述と同じである。(『賀川豊彦とボランティア(新版)』2009年、98頁)

        源治郎と賀川豊彦との最初の出会い

賀川豊彦とその仲間たちの働きで、一番私たちの心に響いてくるのは、天来の使命に、黙々と打ち込み、苦労を分かち合って、無心に歩んでいる、その姿である。その意味では、豊彦とハルが結婚し、そのほぼ1年後、豊彦は米国へ、ハルは横浜へ、そして武内はじめ青年たちが「独立イエス団」を意欲して、豊彦とハルが再び葺合新川に立ち戻るまでの、あの草創期の隠れた冒険的日々である。

1917(大正6)年6月、豊彦もハルも、武内たちも再び相揃い、新しい仲間も次々と加わり、新たな事業展開が繰り広げられて行く。そして賀川豊彦とその仲間たちの働きが、一気に注目を集めるのは、1920年(大正9年)10月、小説『死線を越えて』の出版を契機に、大きな節目となった事実は、誰も認めるところである。

ところで、間所幸は源治郎より前に、賀川ハルを通して、ハル自身も「賀川豊彦とその仲間たち」の重要な柱の一人として、トレトレの打ち明け話を直接聞くことの出来る機会に恵まれていた。

賀川には、既に留学中までに『友情』『預言者エレミヤ』『基督伝論争史』『日曜学校教授法』、更には『貧民心理の研究』などの刊行物もあったが、横浜の共立女子神学校の中では、学生の一人としてハルが入学してきたということもあって、彼女の「葺合新川」における働きには、心ある人々の間でも一定の関心を集めていたに違いない。

それは源治郎にとっても事情は同じである。賀川は明治学院の先輩であり、当時の基督教ジャーナリストとして出版界を開拓していた西阪保治との深い交流が、明治学院時代から始まっているわけで、源治郎にも、賀川豊彦はいわば「異色の先輩」のひとりとして関心は持っていたのではないかと想像できる。

しかし普通、私たちがある人物に関心を抱くということと、実際にその人に直接出会って、相互の交流と関係が生まれていくということとの間には、大きな距離があるものである。

では、源治郎にとって賀川豊彦との出会いはいつ、どうして起こったのであろうか。

実はそのことについて、森彬牧師が「<賀川豊彦と共に歩んだ人達>吉田源治郎のこと」(賀川豊彦記念・松沢資料館『雲の柱』9号、1989年秋)で、下記のように書いておられる。

雲の柱文章森牧師の

賀川豊彦を京都の日基連合会の伝道集会に講師として招いたのが何時であったのかは、ここでは明記されていないが、源治郎が初めて神戸の「イエス団」を訪問した経緯は確認することが出来る。

未見であるが、この時の『娘よ自覚せよ』と題されたパンフレットも残されているのかも知れない。ともかく、源治郎にとって、神戸新川への賀川(夫妻?)との初めての対面と初めての賀川の講演に、互いに深く響き会う何かを覚えて、この講演記録を纏め上げる作業をしたのであろう。

森牧師がここに記しておられるように、賀川は源治郎の卓越した仕事ぶりにご満悦で、東京富士見町教会での賀川の講演記録『イエスの宗教とその真理』はじめ、賀川の重要な初期の作品を筆記して、刊行物にまで纏め上げるという大きな仕事を、京都伏見教会在任中に重ねていくのである。

こうして賀川と源治郎の相互の信頼関係は、益々深まっていったのであろう。

    賀川豊彦『イエス伝の教へ方 附少年宗教心理』(日曜世界社、大正9年)
        源治郎による賀川講演の筆記著作の最初?

今回冒頭に収めたのは、大正9年10月に日曜世界社から刊行された賀川豊彦の『イエス伝の教へ方』の初版と第7版であるが、「序」の前に、「日曜世界社編輯部にて 吉田源治郎誌す」として、下のことばを赤文字で掲げています。

文章教え方の冒頭の吉田の


源治郎は、京都伏見教会に赴任した後、何時から「日曜世界社編輯部」に関わっていたのか、またこの編輯部と如何なる関り方をしていたのかはこれだけでは判らないが、先にも触れたように、処女作品『児童説教』の刊行を手がけた明治学院の学生時代から、日曜世界社の西阪氏とはお互いに意気投合した関係にあったことは確かなことであろう。

そして前記の森牧師の文章にあった賀川の『イエスの宗教とその真理』には、その「序」において賀川は、特別に吉田源治郎の名前をあげて、「吉田兄は既に私の書物を3冊まで筆記してくれた。吉田兄は此年1年は殆ど私の為に犠牲にしてくれた。それで私はどんなに吉田兄に感謝してよいか知れない。」という言葉で、深い謝意を表している。
 
賀川は、この時点で吉田は「私の書物を3冊まで筆記してくれた」という。
3冊がどの書物か確定は出来ないが、多分その1冊はこの『イエス伝の教へ方』ではないかと推定しているがどうであろう。

源治郎がここに書き記すように「世界日曜学校大会」が日本で開催されるのを機に、西阪と源治郎は、新企画「宗教教育研究叢書」なるものを新しく産み出し、その「第壱編」として、本書の刊行を飾ろうとしたのである。

そこで以下に、その吉田への謝意を記した『イエスの宗教とその真理」の「序」の全文を収めておきたいと思う。賀川豊彦『イエスの宗教とその真理』(警醒社書店、大正10年12月)の「序」。ただしここにスキャンしたのは後の改版普及版で、初版と多少組み方が違う。

どの書物でも巻頭に収められる「序文」というものは重要であるが、賀川の作品の場合も同様である。「序文」だけ読んでも、彼の詩情豊かないのちの溢れが伝わってきて、心の芯が温められてくる。「詩人としての賀川豊彦」などと言われるが、例えばこの「序」の初めの数行を、詩の形に並べて見ると、それだけで立派な詩作品として読めてくる。

賀川の序文1

賀川の序文2

賀川の序文3

賀川の序文4

ここでこの「序」をテキストにして収めて置く。

 序

 傷つけられたる魂に、イエスの言葉は恩(めぐみ)の膏(あぶら)である。それは温泉のごとく人を温め、噴水のごとく力づけてくれる。解放の日に、イエスの愛は感激の源であり、犠牲の旗印である。神は強い。そしてイエスは、その最も聖く、最も強い力の神を教えてくれる。

 イエス自身が、神の符号である。つまり言葉である。イエスのよって、神が人間に向かって、発言権を持っているのである。イエスはローゴスである。道である。行動である。生命である。慰めである。

 私にとっては、イエスほど親しく、なつかしい姿はない。阿波の徳島の暗い生活に、初めてイエスの山上の垂訓の意味が徹底してきたときに、私は踊り上がって、彼を私の胸に迎え入れたのであった。

 私が耶蘇になることには、余程の覚悟が必要であった。私は三十五銭の聖書を買うのに苦心した。それほど私は貧乏であった。私は教会に行くことを許されなかった。親族のすべては、私がイエスの弟子になることに反対であった。

 阿波の吉野川の流域には、旧幕時代から富裕な豪家がたくさんあった。そしてその多くの豪家は、たいていは血続きであった。私の父の家はその豪家の一つであった。そして私も五つから十一の時まで、吉野川の流域の大きな藍の寝床のある家で育った。

 しかし明治の中頃から、阿波の吉野川の流域の豪族の間にどういうわけか、淫蕩の気風が流行病のように蔓延して行った。私の村の付近で、大きな豪農の白壁を塗った庫が、私の見ているうちに倒れたものは数限りなくあった。

 すべてが道徳的頽廃の気分で蔽われていた。あの美しい吉野川の澄み切った青い水も、人の心を澄ますことはできなかった。

 私も早くから、悲しみの子であった。

 私は、十一の時から禅寺に通うて、孟子の素読をさせられた。しかし、聖くなる望みは、私の胸には湧いて来なかった。

 私は、私の周囲の退廃的気分を凝視した時に、聖き心の持ち主になるなどいうことが、全く絶望であることを知っていた。それで全く暗い力に圧せられて、寂しい生活を続けていた。

 そして最初会ったイエスの弟子も、私に徹底するようなイエスの生活を見せてくれなかった。それで私は十五の時まで、イエスの大きな愛を知ることが出来なかった。

 しかし、ローガン先生の英語の聖書研究会に出るようになって、ルカ伝の山上の垂訓を暗唱して、私の心の眼は、もう一度世界を見直した。

 私はなぜ、私の周囲が退廃しているかがすぐわかった。それは「神」がなかったからであった。偶像の統治の闇があまりに暗いものであった。そして私はその闇を破る勇気がなかった。しかし、私に米国宣教師の導きと愛が加わるとともに、私の胸は踊った。今でも、ローガン先生とマヤス先生は、私の親のように、私はまた彼等の子のように、いつ如何なる時でも、愛しいつくしんでくれるが、私は彼等を通じてイエスを見た。そしてイエスの道がよくわかって来た。

 阿波の山と河は、私に甦って来た。そして私は、甦りの子となった。
 私の一生を通じて、最も涙ぐましいその徳島の空が、私に「愛」を教えてくれた。
 それは美しいものである。

 愛することは、美しい。美しい自然の下で相愛することは、更に善いことである。
 若い時に愛することは、最上のよろこびである。
 私は、イエスの十字架によって、人間のすべての奥義をみた。
 私は、十五の幼い時から三十四の今日まで、変わらざるイエスの愛に守られて、その恵みを日一日、深く味うている。凶漢に殴られる時でも、酔漢に侮辱される時でも、辻の淫売婦に接する時でも、イエスは常に私を強くして、いつも聖くおらせてくれる。

 貧乏が貧乏でなくなり、淋しさが淋しさでなくなり、未決監に入っても、血を吐く時でも、死にかかった時でも、イエスの愛は私を強めてくれる。

 私はいつも、イエスがユダヤ人であることを忘れている。彼は今日生きている私の友人ではないか! 彼は最も人間らしい人間、レオ・トルストイよりも、私に近いものではないか!

 私はイエスによって、無数の友を貧しき人の中に得た。無数の愛人を労働者の中に得た。イエスによって妻も得た。イエスのよって最もよき親友を得た。学問も、書物も、何もかも、イエスが私に与えてくれた。

 わたしは、ほとんどイエスのために、何もした覚えがない。しかし、イエスは私にすべてを与えてくれた。

 そして、イエスを味うているその味わい方を、偎々各方面の人が聞かせてくれと言われるので、話をした。東京でも、大阪でも、神戸でも、堺でも、同じことを話した。そしてまだ多くの人が、それを聞きたがっている。

 それで、私の善き友人たちは、今度はそれを一冊の書物にしたいと言い出した。そして、その中でも兄弟のようにしている伏見教会牧師の吉田源治郎兄は、私の談話を全部筆記してくれた。

 それは、私には光栄である。吉田兄は既に私の書物を三冊まで筆記してくれた。吉田兄は、この年一年はほとんど私のために犠牲にしてくれた。それで私は、どんなに吉田兄に感謝してよいか知れない。しかし、世に産まれ出る必要のあるものなら、産まれ出ることは善いことである。
 それで、喜んで私は、「イエスの宗教とその真理」を世に送り出すのである。

 私はすべてを神にお託せする。この後の戦いのすべてをも神に。
台風よ起これ。海嘯よ来い。私はそのすべてを超越して、イエスの懐にしっかと抱きしめてもらうのだ。

 私はイエスから離れることを欲しない。彼は私の棟梁だ! 彼は船長だ!
 私は彼の指図のままに船を進めよう。
 暴風雨(しけ)よ、来い! 帆も、舵も破れよ。イエスは変わらず愛してくれるから、私に心配はない。

 親しき日本の土に生まれ出た人々も、すべてはイエスの愛の中に、太陽を仰ぐ日が来る。
春は黒土の中から甦る! 雪を越え、霜を踏んで、甦りの準備がせられる。傷められた霊が、すべてイエスを見る。すべてのものが万物更改の日をみることは、あまり遠くはない。

 私は、私の生きている日にそれをみなくとも、勝利がすべてイエスにあることを知っている。誠に。誠に―。

  1921年12月21日     
                  著   者
                             神戸貧民窟にて

            ♯                       ♯


今回の最後になったが、恐らく先の賀川の講演記録のパンフレット『娘よ自覚せよ』に続く、源治郎の手になる賀川の著作『イエス伝の教へ方』の「序」を、下に掲げて次へと進みたい。珍しい刷り方であるが、この「序」も、赤字で印刷されている。

 ここには「序」だけであるが、本文も実にユニークな中身である。『賀川豊彦全集』第6巻に収録されているのでご一読あれ。

イエス伝の教え方の賀川の赤字の序文


       (2010年5月28日記す。鳥飼慶陽)(2014年6月16日補正)





















スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

keiyousan

Author:keiyousan
このブログのほかに同時進行のブログもうまれ全体を検索できる「鳥飼慶陽著作ブログ公開リスト」http://d.hatena.ne.jp/keiyousan+toritori/ も作ってみました。ひとり遊びデス。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。