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KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(18)

雲の柱表紙

   第18回「イエスの友会」及び「雲の柱」と吉田源治郎

第10回では吉田源治郎と幸の結婚(1919(大正8)年)後の「京都伏見教会時代」を訪ねていた。丁度、二人の結婚の年、幸の弟「間所兼次」が商業学校を卒業して、賀川の紹介で、大阪に出て就職するということもあり、しかも間所は大阪を拠点とする「購買組合共益社」の立ち上げ準備に賀川と共に参画し、翌年(1920年)の「共益社創立」からの兼次の活躍振りに少し触れて置く積りで、第11回を始めたのであった。

ところが、「間所兼次」の働きについても「共益社」の事業展開に関しても、私自身が無知であったこともあり、貴重な関係資料が多く収集されていたために、第14回まで延びる事になった。加えてその時点で、更に新たに「共益社」関係の「お宝写真」を預かることが起こり、それの紹介を併せて進めることが出来て、結局第17回まで合計7回を重ねることになった。

実は「間所兼次」に関しては、「共益社」関連の働きと密接な関わりのある、大正14年以降の吉田源治郎の活動拠点となった「四貫島セツルメント」における積極的協働の事実にも触れて置かねばならないが、「吉田源治郎と幸」の歩みは、まだ「京都伏見教会時代」の新婚生活の時まで進んだばかりであって、「京都伏見教会時代」を越えて、「源治郎の四貫島時代」を取り上げる時に、改めて「間所兼次」の再登場ということにしたいと考えるので、一先ず「間所兼次と共益社」の項は、前回で区切りを付ける事にした。

そこで今回は、第10回「京都伏見教会時代の源治郎と幸」の働きに立ち返り、表題の如く吉田源治郎が当時深く関わった「イエスの友会」の組織化と「雲の柱」の創刊について取り上げることにする。
 
既に「源治郎の生涯のパートナー・幸」については、第7回「間所幸と賀川ハル―共立女子神学校時代」並びに第10回「京都伏見教会時代の源治郎と幸」などで取り上げてきたが、吉田摂氏と梅村貞造氏よりお預かりした資料は、実は「源治郎」関係よりも「吉田幸」のものが量的に多数を占めていて、独立して扱わねばならない程のものであった。

この度の連載を始める経緯は、冒頭に記した通りであるが、私にとって「吉田源治郎」は殆ど未知に近いお方であり、まして「吉田幸」についておや、である。

しかしこうして時間を見つけては、ご夫妻の歩まれた生涯の足跡を少しずつ眺め回していると、「吉田源治郎・幸の世界」への気儘な連載も、インターネット上の「賀川オフィシャルサイト」に加えて、本年(2010年)4月グランドオープンした神戸の賀川記念館4階「賀川ミュージアム」の来館者向けのパソコンでも覗ける様にご配慮頂いているが、このまま不慣れなものを継続してみたい。

     「イエスの友会」の命名者・吉田源治郎

ところで、「京都伏見教会時代」に源治郎と幸は結婚家庭をスタートさせた翌年(1920年・大正9年)10月には、賀川の超ベストセラー小説「死線を越えて」が改造社より刊行され、一気に人々の心を摑む事になる。そして翌年(1921年・大正10年)の「熱い夏」には「川崎・三菱大争議」に立ち上がり、智恵を尽くした示威運動を展開するが、運動自体は「敗北」に終わり、賀川他多くの幹部等は検束されていった事態に関しては、現在では周知の事実である。

ほぼその2ヵ月後の10月5日、奈良の旅館・菊水楼において呱々の声が上げられた小さな組織「イエスの友会」について、今回まず取り上げて置かねばならない。特にこれには、源治郎も自ら参加し、この組織の名付け親でもあるからである。

現在も「イエスの友会」は活動を継続している組織であるが、誕生の場所となった旅館「菊水楼」はいまも存在しているようである。「菊水楼」の写真は何度かで見た記憶があるが直ぐに取り出せない。

 「イエスの友会」結成の経緯については、多くの著書で触れられているが、命名者・源治郎のことにも言及している横山春一の「賀川豊彦伝」(増訂版、警醒社、昭和34年)に記された「イエスの友会」のところを先ず見て置く。

文章1

文章2

文章3

なお、「賀川豊彦学会論叢」第14号(2005年12月)所収の加山久夫「賀川豊彦と神の国」の「賀川豊彦とイエスの友会の発足」の項では、「結成の場所」と「賀川の意図」並びに「呼びかけメンバー」に触れて、次のことが記されている。

「1921年10月5日、日本基督教会の全国大会が奈良菊水楼で開催されていたが、社会的関心の希薄な大会の雰囲気に憤慨した賀川は、小野村林蔵とともに、明治学院出身の友人たちによびかて、イエスの友会を結成した」(83~84頁)

そして99頁の「注2」において、イエスの友会の「創立メンバーは以下の人々であった」として、横山が上記の「賀川豊彦伝」で上げている「賀川、中山、村田、吉田、日高、松尾、飯島、高崎、小野村」(横山は最後に「賀川はる子」の名も入れているが、果たしてこの大会に彼女は参加していたかどうかは疑わしい)のほかに「沖野岩三郎、高尾益太郎、郷司慥爾、原田友治、河村斎美、諏訪修治、山本岩吉」を示している。

ついでに細かなことであるが、「賀川豊彦研究」第17号(本所賀川記念館、1989年)所収の雨宮榮一「初期『イエスの友会』について」には、「賀川が属していた日本基督教会の教職者会が開かれ、14名の教職によってつくられた」とされ、教職たち14名の任地も、次のように示されている。

 「日高善一(京都)、沖野岩三郎(東京)、山本岩吉(青森)、山口重太郎(松山)、村田四郎(韓国大邱)、高尾益太郎(佐世保)、松尾造酒蔵(鎌倉)、諏訪修治(飯田)、河村斎美(新宮)、飯島誠太(岐阜)、高島能樹(東京)、吉田源治郎(伏見)、小野村林蔵(北海道)、賀川豊彦(神戸)」(17頁)
 (「高島能樹」は「高崎能樹」の間違いであろうが、「山口重太郎」は最初期の「イエスの友会会員名簿」にはあるが、先「創立メンバー」のリストには欠けている。

何れが正確なのか判らないが、かくして「イエスの友会」は誕生したのである。勿論この会の入会申し込み先は、「神戸市北本町6丁目220 イエス団内イエスの友会」である。
 

      「雲の柱」の創刊

既述の通り、源治郎の妻となる幸は、横浜の共立女子神学校時代の大正3年から6年までの3年間、賀川ハルと親しく過ごし、大正7年に源治郎が京都伏見教会に赴任して後、源治郎が神戸葺合新川の賀川を訪ね二人の交流も始まり、源治郎と幸の結婚の時にも京都室町教会で日高善一牧師の司式で、花婿は媒酌人の西阪保治のフロックコートを、花嫁は賀川ハルの紋付を借りて臨んだこととか、源治郎は、賀川の講演を見事に著作に仕上げるなど(大正9年の『イエス伝の教へ方』ほか)を通して、互いの信頼関係も深まる中で、上記の「イエスの友会」結成へと進んでいったのであろう。

今回の冒頭に掲げたものは、1922(大正11)年1月発行の「雲の柱」創刊号の表紙と目次である。2ヶ月前にできた「イエスの友会」の機関誌の役割を担い、東京・警醒社書店より月刊誌として刊行されたものである。

この創刊号を見ても、賀川は勿論、吉田源治郎の訳稿の連載も始まり、源治郎は「編輯」作業を担っており、この当時すでに警醒社書店から出版間近となっていた吉田源治郎の主著のひとつ『肉眼に見える星の研究』をサポートした山本一清の「珍しや水星―天文通信」の連載も第2号から始まり、源治郎たちの結婚の司式をした日高善一の「創作」も登場している。

       源治郎の「編集後記」
 
創刊号の編集後記で源治郎は、「日本の闇が深くならぬ中に―新しい一つの運動を醸そうとして多くの友人の祈と祝福の裡に本誌が生れ出た。」「『雲の柱』という題号は精神運動即社会運動を表象する」とし、第2号の奥付の「編輯短信」でも、次のように記している。

編集後記
 

    「雲の柱」に関する二つの論稿(米沢・村島)から

ここでは「雲の柱」に関する二つの論稿から少しずつ取り出して置きたい。
一つは「緑蔭書房編集部編『雲の柱』解題・総目次・索引」の序文「『雲の柱』誕生から終刊まで」(米沢和一郎)の冒頭部分のみ)。

誕生から週間

ここに上げた米沢論稿の冒頭の一部の最後に、村島帰之が「雲の柱」終刊号(昭和15年10月)に寄稿した「雲の柱十九年私史」について触れているが、源治郎との関係も浅くはない村島のこの一文を、最後に収めて置きたい。

この村島論稿は、松沢資料館発行の「雲の柱」第1号(1985年秋)の15頁から25頁に全文収録されているので、ここではそちらの初めの3頁分をアップさせていただく。

村島のこの論稿は、大正11年から昭和15年までの「KAGAWA GALAXY」の動静を知る上でも大切なものであるが、この月刊誌の編集を担っていた源治郎は、創刊の年(大正11年)の10月には、米国ニューヨーク州オーボルン神学校留学のため、ほぼ3年間日本を離れるので、この段階ではまずその最初期のみにして置く。

雲の柱19年文章1

雲の柱19年文章2

雲の柱19年文章3

 なお、「村島帰之」については、現在同時進行のブログ http://d.hatena.ne.jp/keiyousan/に於いて「賀川豊彦の畏友・村島帰之」の長期連載をしているので、神戸の賀川記念館の「研究所」の「鳥飼の部屋」にも収めていただいている村島帰之の重要なドキュメントと共に閲読願えれば有難い。

さて、次回からは、源治郎と幸の新婚時代である「京都伏見教会時代」におけるもう一つの大きな出来事、源治郎の代表作ともいうべき『肉眼に見える星の研究』のことを取り上げて見たい。本書は、1922(大正11)年8月、警醒社出版より刊行された。

  (2010年6月10日記す。鳥飼慶陽)(2014年6月25日補正)

補記
 本文で「イエスの友会」結成の場所「奈良菊水楼」の写真がどこか見当たらなかったことを記したが、今回書き終えて机上の整理をしていると、探し物が出てきたので、ここに補記して置く。こうしたことは今や私には珍しくもないが、何ともお恥ずかしい。

 これは松沢資料館発行の「雲の柱」第10号(1991年秋)で、賀川純基氏の「編集後記」によれば、創立70年を迎えたイエスの友会の修養会が、結成の地・奈良で開催され、純基氏もそれに参加され、足を伸ばして「菊水楼」まで出向いて、自ら撮影したものと思われる4枚の写真が、巻頭グラビアに入っている。以下のものは、その内の2枚であるが、「編集後記」で、次のように記されている。

 「イエスの友会が結成されたその場所、菊水楼は、70年前と同じように猿沢池畔に立っていた。明治時代に建てられた美しい木造建築で、土台もしっかりしているのであろう。いくつかの戦争や激動の時代に、焼けず倒れず、建てられたままの姿を見せていた。立派な門構えも手入れもよく保存され、現在は高級な料亭旅館として営業をしていて、わたしたちはそこで記念の催しをすることが出来なかったのは残念であった。」

なおこの号は「イエスの友会」が特集され、賀川純基氏が1990年7月30日に「賀川豊彦とイエスの友会」と題する講演を行った「まとめ」と「イエスの友会」の「夏期修養会・全国大会」「小冊子運動出版物」リストなどが収められている。

  下の写真は「菊水楼」入り口と玄関である。

入口菊水楼

菊水楼玄関






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