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KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(22)

星座
  オリオン座大星雲(『肉眼に見える星の研究』81頁)

      第22回 『肉眼に見える星の研究』(2)

前回紹介した本書の「序」で、源治郎は次のように書き始めていた。

「私は、幾夜さ、星を仰いで、夜の更けるのを忘れたことであろう――或時は肉眼で、或時は小望遠鏡で。星々の優麗な光彩は、私の慰めであり、喜びである。私は、今も思ひ起して、心が躍る――あの桃山高地の夜半のそぞろ歩きのひと時を。」
「伏見桃山の高地は、砂漠ではない――然しながら、自然美に恵まれた此地の夜は、私の心を星の世界に引着するに充分の魅惑をもっている。」

「伏見桃山の高地」という場所は、現在どうなっているのか判らないが、源治郎にとって結婚家庭のスタートの地でもある「京都伏見」の足掛け5年間は、「星の世界」に魅せられ開眼した大切な時もであった。

多分それに至る下地は、源治郎の故郷「三重・伊勢」から始まっていた筈である。
既に紹介した彼の中学時代の文芸と論述、そして音楽の才能や英語力などを発揮し、日本の伝統的な基礎知識と共に、幅広い外国の文学・思想・宗教への深い教養を、明治学院に進学して更に磨きをかけていたに違いない。

その証拠は、明治学院の学生時代、1917(大正6)年1月にはほぼ草稿を纏め上げ、翌年4月に京都伏見で最終補正の上、6月に日曜世界社より刊行した源治郎の処女出版『児童説教』が存在していたことは、既に第9回で取上げた通りである。そこでは特別に、源治郎の二つの小説教-「何時だろう?」「星辰(ほし)と彗星」-を紹介して置いた。この二つの短い説教を読むだけでも、源治郎の「宇宙と地球」への関心の深さと豊かさを学び取ることが出来る。

       再び源治郎の処女出版『児童説教』より

ところで『児童説教』の初版を第9回で見た後、第16回で記録したようにこの著作は読み続けられていて、およそ10年後の1927(昭和2)年9月には上製本として改版されている。下のように、新たに副題が加えられている。

表紙児童説教

同年12月の5版を吉田摂氏が所蔵されていたので、取りあえずここでは、第9回で紹介した二つの説教とは別に、もうひとつの児童向け小説教「汝等の光を輝かせ」を、追加して紹介したい。

児童説教1

児童説教2

児童説教3

児童説教4

       天文学者・山本一清(いっせい)との出会い

源治郎は本書「序」の末尾に「畏友・山本一清氏への深甚の感謝」を次のように記している。

「畏友京都大学天文台助教授理学博士山本一清氏の激励と好意の寄興が、どれ程、深いものであったか--山本氏は、本書に序章を寄稿して下さったのみならず、原稿全部を校閲して下さった。その上に付録として収めてある二葉の星図を私の為に書いて下さったのである。序に記せば、山本氏は、昨年(大正10年)12月から、本年4月にかけて、私の宅で毎月1回開かれた通俗天文講座の講師として、「太陽系の話」を講じて下さった。それ等の講演や、同氏の雑誌「天界」に公にせられた論稿が、本書の編述に際して、与えられた裨益と示唆は甚大であることを茲に書添えて、深甚の感謝を同氏に寄せます。」と。

山本一清(いっせい)は、源治郎より2歳年上の1889(明治22)年生れで、1913(大正2)年京都帝国大学理科大学物理学科卒業して、京大天文台助教授のときの交流であるが、山本は1920(大正9)年には、日本で最初の「天文同好会」をつくり、数年にして千人を越える会員を集め、関西を中心に北海道、東北、関東から四国・九州、さらに当時の満州(現・中国東北部)や台湾にまで活動範囲を広げたといわれる。

ところで、山本一清のご子息・山本進(山本天文台・理事)が1984(昭和59)年8月の「天界」に「吉田源治郎の憶い出」を書いている。その中に次の言葉がある。

「吉田師は東亜天文学会(旧、天文同好会)創立当初からの古い会員の一人であった。1920年11月に、各地方に会員が多数出来たので左の六ヶ所に支部を設け、それぞれ支部幹事が嘱託せられたとて、水野千里、海老恒治、古賀和吉、宮森作造ら8人の名が挙げられている中に、洛南支部(12月8日附)支部幹事 吉田源治郎氏 と記されている(天界 第3号、1921年1月号)。」また、西宮市在住時代には東亜天文学会の地方委員に推挙せられていた。天界には第6号(1921年4月号)以後に時々投稿が見出される。」

この文章を読めば、源治郎は1920(大正9)年から山本との交流を始めていることが確かめられる。

実はこのことに関しては、源治郎自身が本書367頁以下に「天文同好会について」という節を設け、書き記していたことをいま思い出したので、次にそれを紹介して置きたい。

天文同好会1

また、源治郎の『肉眼に見える星の研究』の巻末に、山本の処女出版と思われる『星座の親しみ』(警醒社書店、大正10年)の広告があるので、併せてここに取り出して置く。発売後1年も経ていないのに、既に「第十一版発売」となっている。山本は更に、『天文と人生』『星空の観測』『遊星とりどり』などを連続して、同じ警醒社書店より出している。

星座の親しみ

山本の始めた「天文同好会」は、その後「東亜天文協会」と改称され、さらに現在の名称である「東亜天文学会」(Oriental Astornomical Association)となっている。

前に源治郎が編集に関わった「雲の柱」のところで触れたように、山本一清はこの機関誌にも度々寄稿し、後に取上げる源治郎も深く中心的に関わった「農民福音学校」の講師としても名を連ねている。

山本一清は1928(昭和3)年に京大花山天文台が設立されると台長に就任し、1938(昭和13)年に京大を退官した後、私設天文台の山本天文台を設立している。生涯を通じてプロの天文学者とアマチュア天文家の橋渡しをし、天文学の広範な普及・発展に大きく貢献した人物として知られているようである。

そしてその後の著作も多く、前にあげた以外の単著だけでも、『宇宙建築と其居住者』(警醒社、1923年)、『火星の研究』(警醒社、1924年)、『宇宙開拓史講話』(警醒社、1925年)、『家庭科学大系』(文化生活研究会、1927年)、『ラヂオ講演・太陽の近況』(博文館、1927年)、『天文の話・鑛物の話』(文藝春秋、1929年)、『標準天文學』(天文同好會、恒星社厚生閣、1930年)、『万有科学大系』(1931年)、『初等天文學講話』(恒星社、1931年)、『登山者の天文學』(恒星社、1932年)、『日食の話』(恒星社、1936年)、『アムンゼン』(新潮社伝記叢書、1941年)、『天體と宇宙』(偕成社、1941年)、『子供の天文学』(恒星社、1942年)、『星の宇宙』(恒星社厚生閣、1942年)、『星座の話』(偕成社少年少女文庫、1942年)、『星』(晃文社、1942年)、『月の話』(偕成社、1943年)、『コペルニクス評伝』(恒星社、1943年)、『天文新話』(恒星社厚生閣、1947年)、『海王星発見とその後の知識』(恒星社厚生閣、1947年)、『星座とその伝説』(恒星社厚生閣、1969年)、『48人の天文家』(恒星社厚生閣、1969年)などがある。
 
山本一清は、吉田源治郎の『肉眼に見える星の研究』に「序編」を寄稿し、「星座と星名について」と題して18頁分を用いて解説を行っている。この「序編」の扉に1頁をとって「大正11年1月6日」付けの短い言葉を添えている。ここには、一清と源治郎の「星道楽の仲間ぶり」が刻まれている。「京都は寒いところです。夜中には赤インキが凍ってザクザク言ふのです・・」
ここでそれを紹介して、今回は終わりたい。

山本の文章最後に

     (2010年6月21日記す。鳥飼慶陽)(2014年6月30日補正)

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