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KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(24)

     新川入口

      第24回 『肉眼に見える星の研究』(4)

源治郎の『肉眼に見える星の研究』の大正11年の初版本にある「序」は、既に紹介済みであるが、あの中に、賀川豊彦の次の詩が引用されていた。

星さえあれば/友達はある//さようなら地球/さようなら!/黒土の自由は/もう我要らぬ/北天の空/我は飛ぶ//星さえあれば/地球は要らぬ/今宵一夜は/星に寝ん

そこには、詩のタイトルも引用元も記されていなかったが、この作品は大正8年11月に福永書店より出版された、賀川の処女詩集『貧民窟詩集 涙の二等分』にあるもので、「星さえあれば」と題された作品(69頁~74頁)の部分引用である。この詩集には、賀川とは10歳年上で、当時既に歌人として名を馳せていた与謝野晶子が、26頁にわたって論評した「序」を巻頭に寄せたことでも注目された。因みに、『涙の二等分』にある「星さえあれば」の原詩は、次のようになっている。(部分引用ということでは、詩集の書名ともなっている冒頭の有名な作品「涙の二等分」(1頁~12頁)は、長詩とはいえ引用される場合は殆ど部分引用であって、原詩を眼にすることは殆ど無い。) 

ほしさへあれば

ほしさへあれば2

ほしさえあれば3

     賀川豊彦『星より星への通路』(大正11年)

大正11年8月『肉眼に見える星の研究』が警醒社書店より出る3ヶ月前、賀川の「散文詩」「感想・対話」「短編・喜劇」を集めた『星より星への通路』という作品が改造社から出版されている。

今回最初に掲げた写真は、この本の初めに入れられたもので、賀川はそこに「私の13年間の住居」と説明を加えている。
この時はまだ長男・純基の誕生する前である。何が干されているのかよく判らないが、長屋の軒下が物干し場である。
賀川や近所の子供たちが、この家の前で写された写真はよく知られているが、賀川の住居だけを撮ったものは余り見当たらない。

       三浦清一編『賀川豊彦随筆集』の草稿発見

この春オープンした「賀川ミュージアム」では、神戸の賀川記念館で所蔵されている関係資料の整理が少しずつ進められているが、先日、下にあるような題名の書かれた400字原稿用紙400枚余りの古い草稿が出てきて、我が家に持参いただいた。

三浦原稿1

この作品は、敗戦間もない1946年2月に、神戸愛隣館の館長をしていた三浦清一牧師の手によって編まれた貴重なものである。

草稿の巻末には、「賀川豊彦氏と隋筆」と付けられた三浦氏の19枚の解説がある。大正初年ごろからこ敗戦の時までの数多くの賀川の小品を集め、独自に6章構成にして完成されている。

なぜこの草稿が眠ったままになったのか、その理由は判らないが、神戸の賀川ミュージアムでこれの取り扱い方について検討が始まることであろう。
 
三浦氏が、戦後間もなくこの編纂を手がけ、1946(昭和21)年早々に完成させたこの作業は、一部は印刷物から切り取り原稿用紙に貼り付けてあるが、多くは三浦自身の手で、丁寧に根気よく原稿用紙に書き写されたものである。

これには賀川の著書の序文も多く集められている。常々、賀川の作品の序文だけを編集し、適切なコメントを入れて作品に仕上げることも面白いかな、等と考えていたこともあり、三浦のこの労作には、個人的には心惹かれるものがある。

かつて賀川の随筆類は、作家の鑓田研一氏によって編集され、第一書房より『人生読本』(昭和11年)や『宗教読本』(昭和12年)として刊行され好評を博したことがあるが、詩人でもあった三浦清一氏によるこの草稿は、敗戦までのものとはいえ、重要な編纂作業であることには間違いない。

21世紀の今、三浦氏の労作を活かして、新しく賀川の膨大な作品の中から精選した「賀川豊彦随筆集」を編算するのも、大いに意義深いものと思われるがどうであろう。

(補記 上記の随筆集はいま、神戸の賀川記念館のHPにおいて、全文テキスト化されて公開されています。記念館の語り部の方によって丁寧な労作によるものです。ありがたいことです。)

       散文詩「星より星への通路」(「改造」大正10年9月号)

ところでこの三浦清一の草稿には、全頁に正確なノンブルが入れられているが、何故か54頁から65頁までが欠けている。「目次」を見ると、その欠けている所は『星より星への通路』の「序」を収める積りであったことが判る。 

確かにその「序」も面白いのであるが、いま源治郎の『肉眼に見える星の研究』をめぐって思い巡らしている私には、賀川の『星より星への通路』という書名と共に、その第一篇のタイトルも「星より星への通路(散文詩)」と名付けられ、しかもその最初が、「1921・8・15」の日付のある「星より星への通路」であることに、注目させられるのである。

先の第19回で取上げたように、「1921・8・15」ということは、「神戸大争議」で賀川ら幹部が検束され(大正10年7月29日)神戸監獄橘分監に収監(7月31日)、釈放されたのは8月10日で、その翌日あの「写真」は撮影されていたところまでが明らかになっていた。

そうすると、賀川がこの「星より星への通路」を執筆した「8・15」は、釈放後5日目のものであることが判る。
こうした経過を念頭にして、賀川のこの作品を読めば、彼はこのとき既に源治郎の『肉眼に見える星の研究』を手にしていたか、校正段階のものを読んでいたであろうことは充分想像のつくことである。

それで今回は、少しまた横道にそれるけれど、三浦草稿を機縁にして、賀川の「散文詩」である「星より星への通路」を、原著よりここに取り出して、ご一緒に読んで見たいと思う。 

星より星へ1

星より星へ2

星より星へ3

星より星絵4

星より星絵5

星より星絵6

星より星絵7

星より星絵8

山田典吾監督の映画「死線を越えて」におけるこの場面にも、この「星より星への通路」に書かれた「奴隷の国より自由の国へ、圧制の国より、解放の国へ、暗黒の国より、光明の国へ--駆け出す日であった。」の箇所が採られていたことは、ご記憶の方もあるであろう。

そして、ここにある「雲の柱」は、このあと直ぐ創刊となる機関誌の題名となり、「火の柱」も大正15年1月創刊の誌名となった。

なお、「星より星への通路」の初出は、大正10年9月1日の雑誌「改造」第3巻9号のようである。
 
      「雲の柱」(大正13年2月号)の「長屋の南京虫」

その後、賀川は、大正13年1月の「雲の柱」の「長屋の南京虫」の欄において、大正12年12月の出来事として、次のように書き残しているので、それもここに取り出して置く。

 「昨夜も、一昨日の晩も、吉田源治郎君の書いた「肉眼で見る星の研究」を手に持って、冬の星座を青年達と一緒に研究しました。星が花のやうに天に咲いて居ると、私は一人で昨夜も云うたことでした。青白い色を投げるシリウス、その右に見えるオリオンの帯や刀が昔も今も同じところに光っています。真上に見える、カペラや、牡牛も、幾億万年同じ所に座って、人間の地上生活を嘲っているようです。吉田君の本は面白くて上手に書けているのが、有難く思われます。古今の大天文学者ハアシルは天を覗いて神を否定するものは大馬鹿者だと申しましたが、みなさんも神を否定しない為に天を覗いて下さい。」

    (2010年6月28日記す。鳥飼慶陽)(2014年7月2日補正)
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