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KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(31)

伊勢の地図

     第31回 源治郎の米国留学中の吉田幸

長々とのびてしまった『肉眼に見える星の研究』を一先ず終えて、今回は「源治郎の米国留学中の吉田幸」のことを取り出して見たい。

前回、小川敬子氏のエッセイ『憩いのみぎわ』を紹介したが、摂氏より預かった資料の中に、敬子氏の「伊勢の思い出」という手書きの文章があり、そこの前半部分に、丁度この頃のことが記されているので、まずそれを書き写して置こう。

冒頭の「伊勢市」の地図とそこに書き込まれている関係箇所の文字と朱色もおそらく敬子氏の記入と思われる。

     小川敬子「伊勢の思い出」(一部抜粋) 

 大正11年、秋、父親のアメリカ留学のため、京都伏見から故郷の伊勢へ帰ってきた。その頃は、宇治山田市と言った。母、幸は、伏見で資格をとり、公立の幼稚園につとめていたので、帰ってくるとすぐにライカー宣教師の開いた幼稚園に頼まれた。生れたばかりの弟、義亜がいたが、おばあさんや、裏にすんでいた「ばあやん」の手で世話し、私はまだ幼稚園に入れる満3歳前だったが、毎朝、母に手を引かれてライカーさんの幼稚園に通った。

 公立の幼稚園に比べ、ライカーさんの給料は安かったので、父の留学中の生活費に当てるため、実家の八軒長屋を売った。その中の一軒は、もと御師(おんし)だったとの事、或る日、その家をのぞいてみた。暗い狭い家に子供達がいて、そこのご主人は傘張りの内職をしていた。「源治郎に家賃を集めに行かせるといやがった」と云う長屋であった。

 吉田の家は、米屋、質屋などの商売をしており、おばあさんの若い頃は蔵が六つあり、金次というじいやが、夜になると火の用心の拍子木を打って廻ったという。でも私の頃は蔵は一つになり、裏の小さな家に金次とばあやん夫婦が住んでいた。きっと地所も、もっと広かったのだろうが、売ったのかも知れない。この二人に色々仕事をしてもらった。

 夜、教会の集会のある時、私と義亜は「ばあやん」の家で留守番した。お正月の餅つきはその家の台所の土間で金次がついた。金次は威儀を正して、座敷に座っているおばあさんに年賀の挨拶に来た。

 私たちは蔵のある方に住み、後半分の広い、二階のある方は人に貸していた。楠(くすのき)さんという家だった。

文章の中の丸岡家の地図

 山田の町に住む人々は、神領民と云われ、神宮を二十年毎に建て変える時の木をひく、「お木曳」の行事に参加した。「源治郎は若い時、先頭の高い木にのって、音頭をとった」とおばあさんからきいた。

 私の5歳位の時にもお木曳きがあった。宮川に流されてきた材木を、車にのせて、町中を引いて行く。私はどういう訳か、男の子のそろいのハッピを着せられ、頭に鉢巻をした。反対に、金次は女の衣装を着て、頭に花笠をかぶり、嬉しそうに踊っていた。

 道を挟んで斜め向かいにあった丸岡の家は、おばあさんの実家なので、よく遊びに行きました。

 丸岡は昔、越前(福井県)の丸岡のお殿様が、いくさで負けた時、一緒に逃げて来たのだそうで、ずっと御師(おんし)の仕事をしていた。明治になって、廃止されたが、当主、茂太郎には才覚があったらしく、銀行家になり、没落をまぬがれたようである。大正のはじめには東京で仕事をしていたらしく、源治郎の妹、なつゑが「御茶ノ水」へ入学した時、丸岡から通っていたらしい。その夏には、腸チフスで亡くなったが・・。

 御師の仕事の関係で、おばあさんが小さい頃、或いは若い頃、神宮に納める天皇からのお宝ものが、丸岡に一泊した。駅から家まで、白い砂が敷かれた。お供の人たちにお酒のおしゃくをしなくてはならず、こぼすと叱られるので、いやであったと、おばあさんの話である。

 妹の「志か」は、神宮のおかぐらの舞姫であった、との話。

 大正14年の夏、父はアメリカから帰ったが、それを待たず、義亜は「えきり」でその短い生涯を終えた。いぬ年生まれだったので、その後も長い間、命日にはおばあさんが、犬の絵をかいた掛軸をかけていた。ばあやんが、義亜をおんぶしてお守りをしていて、ひどい熱い、と入院したのが、今も残る宇仁田医院だった。昔は道のつき当たりに門があった。

 母、幸の親も近くに住んでいた。おじいさんが時々来て、私に着物を買ってくれたりしたが、脳卒中でなくなり、おばあさんは一人で、小さな家に住み、いつも「打ちひも」をつくる内職をしていた。

(以下、その後のことに続くので省略。文章の中に組み込んだ手書きのものは、冒頭の「伊勢市」地図の欄外に書かれていたものをここに収めた。なお、ここに「御師」(おんし)とあるのは、普通「おし」と呼ぶ様で、詳しくは藤谷俊雄・直木孝次郎『伊勢神宮』など参照。)

    故郷「伊勢」で幸はミス・ライカーと共に常盤幼稚園の教師

第4回で伊勢のミス・ライカー宣教師のことについて少し言及したはずであるが、源治郎が米国に留学して、幸が故郷に戻っていたこの時、丁度「常盤幼稚園教師」の欠員が生じて、相応しい人を探していた時と重なり、先の敬子氏の「伊勢の思い出」にもあるように、幸はすでに公立の保母免許を持ち保育経験もあったので、ミス・ライカーの熱心な依頼に応えて、1922(大正11)年11月2日付けで常盤幼稚園の教師に就くことになった。そして1925(大正14)年7月15日に退職するまで、ここで働くのである。

 この幼稚園時代の写真などが『常盤幼稚園七十年史』(1987年)に残されているので、以下、その中から写真等を取り出して置く。

下のものは、吉田幸が後に(1983(昭和58)年)伊勢を訪ねた時に語った「思い出」で、冨山光一による筆記として収めてある。

お迎えして吉田先生を

         幸の「常盤幼稚園」時代の写真等

関東大震災の写真

幸の幼稚園教師写真
   大正9年卒業生(大正12年3月)
   教師:ライカー・河村・原と共に。幸は左端

第10回卒業生と記念写真
   第10回卒業生(大正13年3月)
   教師:ライカー・河村と共に。左端・幸

第11回卒業生と共に写真
   第11回卒業生(大正14年3月)
   教師:ライカー、吉川と共に。幸・左端

     小林恵子『日本の幼児教育につくした宣教師』より

この項の終わりに、吉田幸がこのとき共に働いたミス・ライカーについて触れられた新しい著書があるので、その一部分のみご紹介して置きたい。

それは小林恵子著『日本の幼児教育につくした宣教師(下巻)』(キリスト新聞社、2009年)で600頁に及ぶ作品である。著者が吉田洋子氏に贈られたもので、ご主人の摂氏から今回お預かりした中の一冊です。

本書の第3章には、前回の最後に触れた「宮澤賢治とタッピング」に関連する「幼児教育の専門家でピアニストのミセス・タッピング」の興味深い論稿ほか、源治郎と幸の活動分野と神戸・関西の幼児教育の先駆者たちの貴重な歩みがわかり易く辿られている。(よくある間違いで「源次郎」は「源治郎」に訂正)

小林文章1
                     
今回の敬子氏の「思い出」に源治郎・幸の長男「吉田義亜」が、父親・源治郎の帰国を待たずして急性伝染病の疫痢に罹り夭逝したことと、義亜のお守りをしていたばあやんが、その命日には長いあいだ、犬の掛け軸をかけて憶えておられたことなどが記されていた。

源治郎の留学の期間、母親・幸と幼い子ども達の「故郷・伊勢での日々」、ほかにも書き残されているものもあると思われるが、今回はここまでとする。

    (2010年7月13日記す。鳥飼慶陽)(2014年7月9日補正)

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