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KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(40)

 えはがき橋と船

    第40回 賀川豊彦の欧米の旅と吉田源治郎

     米国留学中の吉田源治郎

源治郎が米国留学中、シュヴァイツァーの英訳書『原生林の片隅にて』に出会い、強い感銘を受けた後、同じくシュヴァイツァーの小さな大著と呼ばれた『キリスト教と世界の宗教』の版権を取得し、『宗教科学より見たる基督教』と改題して邦訳出版、さらに『文化哲学』の翻訳の権利を得て、その一部を翻訳し『雲の柱』に発表していたことなどを、ここまで辿って見た。

 「吉田源治郎」のことを殆ど知ることのなかった私には、先に取り上げた『肉眼に見える星の研究』の存在にも驚かされたが、シュヴァイツァー関連の源治郎の仕事に関しても大変目を見張らせるものがあった。サイトを覗かれた方も、同様だったようである。

ところで、留学中の源治郎は、伊勢の実家からの経済的支援を受けつつ、自らアルバイトをしたり、いくらかの奨学金を受けたりして、オーボルン神学校での学びを続けたようである。しかし、源治郎の学位論文の内容はどういうものであったのか、そこで特に何を学んだのかということなどについては、いまのところ分かっていない。

しかしこの連載の第1回で紹介した岡本栄一氏の「吉田源治郎先生を中心とした四貫島友隣館の年表」によれば、1924(大正13)年5月には神学修士の学位を取得して卒業し、同年7月からはユニオン神学校及びチャールズカレッジにて聖書学、宗教教育、社会事業を学び、コロンビア大学でも聴講をしていたことが記されている。

一方、賀川豊彦は、周知のとおり1923(大正12)年9月1日のあの「関東大震災」という未曾有の災害時には、急遽神戸で救援物資などを集め、9月4日未明には横浜港に着き、東京の被災の現況を見届けた。

そして再び6日午後であったか、横浜港を船に乗り神戸に戻り、連日連夜救援を訴えて中国や九州にまで足を伸ばして講演活動を行い、10月7日には再び東京へ。

さらに14日にはまた神戸に戻り、16日には木立義道などイエス団関係者4人と共に船で上京、間島医師も救援活動に乗り出し、ハルも長男純基を連れて神戸を離れ、豊彦の活動する東京に出向くのである。

翌年(1924年)3月には、賀川の眼病や腎臓病のこともあり、東京郊外の松沢村に狭い借家を得て、賀川一家の東京での活動が始まった。(そのあたりの概要については、横山春一の『賀川豊彦伝』(警醒社、昭和34年)第7章の「関東大震災救援」で、日を追って記されている。)

    賀川豊彦と吉田源治郎の米国での再会

したがって、この「関東大震災」の起こった時は、源治郎は渡米中であったので、その救援・復旧活動には、直接加わることはなかったのであるが、賀川豊彦の方が、1924(大正13)年11月から翌年(1925年)7月までの約8ヶ月間、米国ならびに欧州への講演と視察の旅に出かけることになり、その途上で、源治郎と賀川の再会があるのである。

賀川は1924(大正13)年11月26日、横浜より春洋丸で出帆する。豊彦にとっては、初めての米国留学から丁度10年目の渡米であった。

12月4日ハワイに立ち寄り、ホノルルで講演を行い、12月16日サンフランシスコ着。今回の渡米は、全アメリカ大学連盟の招待を受けたものであったが、「排日移民法による日米和解の対話のため」の渡米ともいわれ、Union Theological Seminaryをはじめ各地で講演会や会議に出席した。

人物書誌体系37『賀川豊彦Ⅱ』(米沢和一郎編、日本アソシエーツ、2006年)の「年譜」によれば、「1925(大正14)年1月16日、ロスアンゼルスにイエスの友会できる」とあり、また、昨年このサイトで連載した「賀川豊彦のお宝発見」の第25回目でも、賀川がニューヨークを出発して英国へ向かう前に、神戸の武内勝に宛てて届けた16枚もの写真が入っている折りたたみの絵葉書を紹介したことがある。

今回の冒頭に収めた写真はその中の1枚である。

    米国で吉田源治郎が豊彦と出会った記録資料

賀川が米国での旅の途上で源治郎と出会っていた証拠を示す資料を探してみると、『賀川豊彦全集』第24巻に入っている「身辺雑記」の「雑誌『雲の柱』より」中に、次の記述が残されていた。

大正14年
2月 「・・私は少し無理が過ぎたものでしから、所々で病気をしました。然し旅行は大体において愉快です。ただ今ニューヨークで目が悪くて吉田源治郎君と伊藤平次氏のお二人に非常にお世話になって居ります。伊藤氏は近々日本に帰られます。若しも此上目が悪ければお二人の中一人お願いして欧州へ渡ります。そして独逸あたりで休みたいと思っています。・・」 2月6日附 ニューヨークより木立義道宛(大正14年4月号「編集だより」)(39頁)

「手紙を書かうと思ってゐましたが、2月2日にワシントンで、目を患ってから約2週間、ニューヨークで寝てしまひました。幸いにも吉田兄や伊奈兄がゐらしたので愉快に病床で暮らしてゐますが、通信も怠り皆様に心配をかけました。・・ロスアンゼルスの日本人諸君の献金が、約2万円に達しましたので、いよいよ大阪のセツルメント・ワークの仕事を始めることが出来ます。先ず吉田君がどこかで、小さく始める筈です。先ず伝道教会のやうなものから始めたいと思ひます・・。」2月19日 紐育にて(大正14年6月号「欧米通信」(40~41頁)

3月 
「吉田源治郎氏と4月中旬英国ロンドンで一緒になり欧州は一緒に旅行することになりました。」(3月6日)(41頁)

「米国の旅行は、非常に不愉快でした。私のやうな『愛民族』主義者は、かうもなるのでせうね。私は今、欧州に渡るところです。眼の都合で吉田源治郎兄についていっていただきます。眼が悪くなると心配ですから。・・」3月18日アキタニア号にて(大正14年6月号「欧米通信」)(42頁)

以上を見る限り、賀川の欧州旅行には、当初から源治郎は同伴する予定であったわけではなかったようである。賀川の体調、とりわけ眼病の悪化が心配になり、急遽源治郎の欧州行きは決まったようである。

しかし、ここでの賀川の記述を読めば、既にこの時、吉田源治郎は留学を終えて帰国後、大阪のセツルメント・ワークを始めることは、二人の間で確かめ会われていたようである。

     豊彦と源治郎の欧州の旅

賀川は、こうして源治郎と共に3月14日、ニューヨークを出発して英国へ向い、ロンドンには3月20日に着くのである。

    吉田源治郎「ロンドンに於ける貧民窟破壊運動」

源治郎は、英国ロンドンのレイジアンホールを賀川と訪問した時のことを、「ロンドンに於ける貧民窟破壊運動」と題して、帰国後に「火の柱」第3号(大正15年3月25日)に寄稿している。

吉田ロンドン

吉田ロンドン2

そして二人の旅は続き、4月28日にはランス到着し、5月7日にはパリを出発してベルギー・ブリュッセル到着。5月8日にはオランダ・アムステルダム到着している。

「身辺雑記」の「5月」のところの「欧米通信:欧州雲水」の箇所には、

「ニューヨークよりは眼は善いのです。然し、読書が多く出来ないのと、原稿を書くのに無理が出来ないので、ほんたうに弱ります。今日(5月28日)午後からパリーに参ります。そして大陸を6月19日まで旅行いたします。そして6月19日熱田丸でコロンボに出て、コロンボから真夏の印度を33日間旅行いたします。神戸には8月18日に着く予定にします。・・吉田兄はこちらにお連れしましたが、経費の関係で、先に帰られます。そして私はギリシャと、エルサレムと、印度の巡礼を了りたいと思います。」(43頁~44頁)
 
ということが記され、源治郎は最後まで賀川と旅を続けてはいなかったようである。

因みに前記の『賀川豊彦Ⅱ』の「年譜」によれば、賀川の旅は「ドイツ、スイス、イタリー、イスラエル、エジプト、紅海、セイロン、香港、上海を経て、7月22日、長崎着」であった。

この長旅の中で生まれた賀川豊彦の作品は、帰国後すぐ1925(大正14)年12月、『貧民窟詩集 涙の二等分』(大正8年)を出版した福永書店より第二詩集として箱入り上製で411頁の『永遠の乳房』と、少し遅れて翌年(1926年)4月に多くの写真も収めた紀行文の名品『雲水遍路』がこれも箱入り上製美本として514頁の著作として纏められた。

永遠の乳房
 
    賀川豊彦詩集『永遠の乳房』  

「凡てを、私は、凡てを、神に賭けた。
恰も、博徒が、賭場でするやうに。私は、生命も、財産も、書物も、言論も、自由も、行動も、凡てを、神の賭場にはった。そこに私の詩の全部がある。」

という書き出しの「序」で始まる詩集であるが、「涙の二等分」以後の作品に加えて、この長旅のなかで生まれた作品を百数十頁にわたり収めている。

ここには吉田源治郎に関わる作品があるのではないが、この長旅で歌われた二つの詩―1925・3・18 米国で作られた「東に住むもの歌を持つ」と、旅の終わりに作られた「愛する日本」をここに収める。

詩作品1

愛する日本

この長旅では、ロスアンジェルスに「イエスの友会」が生まれたり、国際連盟で活躍中の新渡戸稲造とジュネーブ郊外で出遭ったり、初めての聖地巡礼を経験するなどしている。

    賀川豊彦『雲水遍路』

雲水表紙

 「雲水の心は無執着の心である。
風に雨に、私は自ら楽しむことを知っている。
世界の心は、私の心である。雲は私であり、私は雲である。雲水の遍歴は、一生の旅路である。」

という書き出しの「序」で始まる本書には、賀川が源治郎に言及した箇所がいくつかある。

これまでは「1925(大正14)年5月、源治郎はアメリカ留学の帰途、イギリス、ドイツ、フランス、スイス、パレスチナなど、各国の宗教事情や社会事業を視察。その視察の途中(5月ごろ?)ドイツにて、偶然に賀川と同じホテルに同宿。「イエスの友会」「四貫島セツルメント」のことなど語り合ったとされる」が、上記のいくつかの記述や以下の『雲水遍路』の賀川の紀行文を読む限り、「ドイツにて、偶然に賀川と同じホテルに同宿」そこで「四貫島セツルメント」のことなど語り合った」のではなく、源治郎は賀川の米国滞在中から同伴し、既述の通りふたりは米国滞在中に「四貫島セツルメント」の構想を宿していたことが分かる。

以下に3箇所、源治郎に触れているところを取り出して置く。

     (2010年8月5日記す。鳥飼慶陽)(2014年7月9日補正)


   『雲水遍路』272頁~273頁

雲水本文1

    『雲水遍路』288頁~290頁

雲水本文2

  『雲水遍路』400頁~401頁

雲水本文3
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