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KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(42)

賀川講演写真
1925年1月、ロスアンゼルス第一組合教会に於ける豊彦の講演

    第42回 四貫島セツルメントと吉田源治郎(2)

前回、源治郎が米国留学を終え、1925(大正14)年7月初旬に帰国し、家族の待つ夫妻の故郷・伊勢に戻り、そこで新しい次の住まいを探したのであろうことを記した。

そこで改めて、既に取り上げたことのある『伊勢の伝道・山田教会の歴史Ⅰ』を開いてみると、日本基督山田教会の「教会独立祝賀会並ビニ吉田源治郎氏帰朝歓迎会、来ル7月12日日曜日夕集会後ニ開催スルコト」とあるので、吉田一家はその後、甲子園球場近くの今津駅(現在の久寿川駅)近くの水波に住まいを借りて、新たな生活のスタートをしたのである。

ところで、源治郎が京都伏見の教会に赴任し、幸との結婚の頃から、豊彦との直接的な出会いが始まり、「イエスの友会」の結成の時には、源治郎も参画してその「名付け親」となった事などは既述の通りであるが、米国留学を終えた源治郎が、賀川の目指す新しい社会事業の分野に打ち込むことになる経緯について、賀川が記した短い文章があるので、先ずここに上げておく。

これは「火の柱」第121号(昭和14年9月10日)のもので、大分後に書かれたものであるがイエスの友会が「最初の奈良の出発といふのは、私と吉田源治郎が盛んに主張したので、みなが動いて下すったのだと記憶している。吉田氏は其頃伏見教会の牧師をしてゐられたが、後に私は米国に留学して頂いた。ヘブライ語に堪能だったのでアッシリア語の研究でもされるかと思ってゐたが、米国に行かれてからは、私に賛成して社会事業の方へ転向して下さった。」と書かれている。

ところで、関東大震災の救援活動を契機に開始された「本所基督教産業青年会」の働きの草創期の一端は「賀川豊彦関係史料叢書③『火の柱』別冊」に収められている「イエスの友会会報(第1号~19号:大正13年6月~14年12月)にもいきいきと記されているが、その第10号(大正14年3月10日)の「米国通信」には、賀川の働きに関わって次の二つの項目が紹介されている。

この「日本労働者伝道会社」という構想は「賀川氏の提案」となっており、既にこの時それの「ミメオグラフ刷」も出来ているという。

ところでここに提案された構想は、いつ宿り、具体的な「提案」にまで準備したは、賀川ひとりなのか、まだはっきり分からないが、『雲の柱』の大正14年5月号には、「日本労働者伝道会社の設立」と題して、「1925年1月」という日付の入った「設立趣意書」と「規約」を入れて、紹介している。

今回それを取り出して置くが、「支社」の「ロスアンゼルス」で先ずこれを採択し、「本社」の「東京」は後でという段取りのようであるが、正式スタートする前に「財団基金として1万5千円の拠金があった」というのである。

この種の「趣意書」づくりは、豊彦のお得意のものであるが、この「趣意書」と「規約」を一読する限り、賀川プラス「支社」関係者、ひょっとして源治郎も加わって、これを準備したのではないかと考えられる。

同誌「編輯だより」の「吉田源治郎の書簡」も併せて紹介しておくが、源治郎はこの時、賀川と行動を共にしていたように見受けられる。

今回の冒頭の写真は、1925年1月のロスアンゼルス第一組合教会に於ける講演風景で『賀川豊彦写真集』にあるものであるが、1月16日には、ロスアンゼルスにイエスの友会が発足し、一気にその機運が高まって行ったようである。

こうして、賀川と吉田はその構想を胸に、欧州への旅を続けたのであろう。

   (2010年月10日記す。鳥飼慶陽)(2014年7月21日補正)

火の柱賀川寄稿

編集だより

日本労働者伝道記事

労働者伝道趣意書

労働者伝道趣意書つづき


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