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KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(44)

ロスアンゼルスの人達
 ロスアンゼルス合同教会早天祈祷会の人達:四貫島サポート決議(1925年)

    第44回 四貫島セツルメントと吉田源治郎(4)

上の写真は、既述の「日本労働者伝道会社」の設立を決議した関係者たちである。
賀川と吉田たちに宿った天来の志が在米の日本人キリスト者たちに熱い共感と支持を得て、二人は帰国後すぐ、国内のイエスの友会関係者たちと共に、その実現に向けて奔走することになる。

前回は「四貫島セツルメント」創設期の簡略な記録を『四貫島セツルメント創設記念五十年のあゆみ』から取り出して読んでみた。続いてここに、賀川の「身辺雑記」(『賀川豊彦全集』第24巻所収)や当時の「イエスの友会会報」などに書き残されているものを探してみる。

     イエスの友会大阪支部の誕生

吉田源治郎の帰国を待っていたかのように、1925(大正14)年7月には、大阪在住のイエスの友会の会員たちが「大阪支部」並びに「関西連合会」の組織化と、同年8月15日の「関西イエスの友夏期修養会」の開催を企画・実施している記事がある。
「イエスの友会会報」第15号(大正14年8月23日)で、「7月9日打ち合わせ会を西宮市の村島方で」開催したことなど記されている。

大阪支部うまる記事


    「イエスの友関西夏期修養会」(大正14年8月15日~16日・六甲山)

この「夏期修養会」の記録は、「イエスの友会会報」第16号(大正14年9月20日)にある。
これを読むと吉田源治郎、伊藤悌二、西坂保治、芝八重、武内勝、酒井清七、村島帰之等の話と共に、マタイ福音書25:31~46を取り上げて話した賀川豊彦の「最後の悲劇―非宗教的宗教運動の意義」(これは、大正15年4月に大日本雄弁会より刊行された『賀川豊彦氏大講演集』の巻末を飾った)がなされている。

記録は無署名であるが、紙面に黒川泰一の詩「翌日の太陽」もある。

イエスの友夏期1

イエスの友夏期2

六甲山記念写真
     六甲山での関西夏期修養会の記念写真
 
賀川は右端、吉田は前列左二人目、その右は芝八重、2列目右で旗を持つのは間所、最上列左は村島、上から2列目中央ネクタイは武内。


    賀川豊彦による「身辺雑記」1925(大正14)年9月より 

(前略)吉田源治郎氏が帰って来られて、また私を助けて下さることになりました。同氏は大阪四貫島セツルメントの主幹としてお働き下さるのであります。四貫島は有名な労働者の街であります。そこで日本労働者伝道会社のセッツルメントが開かれることは実に有意義なことであります。
それに就いて、東京本所産業青年会と大阪四貫島セッツルメントを合併して日本労働者伝道会社の仕事としてやるような相談が進行して居ります。どうか皆様も祈りの端にお加え下さい。(中略)
イエスの友の修養会は、御殿場でも、関西の六甲でも実に有益でした。私も、みんなに恵まれました。」(大正14年10月号「村の小屋より」:『全集』45頁)

     イエスの友会大阪支部:「商業使用人組合設立」に就いて

 「四貫島セツルメント」の創立の前に、賀川豊彦・吉田源治郎・村島帰之らが発起人となって「商業使用人組合」の設立を目指す訴えを「イエスの友会大阪支部」が支持している文書が「イエスの友会会報」第16号(大正14年月29日)にある。

イエスの友大阪支部記事


     賀川豊彦の「身辺雑記」(大正14年10月)より

(前略)病気の間、少し本を読んだ。そして旅行中にもまた、本を読んでいます。近頃夜寝る時に梅干しの肉を眼瞼の上にはりつけて繃帯をしてねるやうになって、私の右眼の視力が強くなった。それで辛うじて少しづつ読書ができるようになった。
私は今「愛」を中心にして、キリスト教史を見直している。そして吉田兄も私と一緒にその努力をしていられる。「愛」から見ると驚くべきことが、イエスの教えの歴史の中にある。いずれそれを発表したい。(中略)
大阪四貫島のセツルメントは、気持ちのよいものが出来た。畳数は2階が四畳半、四畳半、六畳、下が四畳、三畳、六畳、それに表に一寸広い庭がある。たったこれだけですが、神戸のイエス団の事務所より広くて、景気が良くて、清潔なのが何より結構です。これで労働者伝道が充分出来ることと思う。
吉田源治郎兄弟がヨーロッパから帰って来た新知識で経営して下さることと古いイエスの友の馬渕康孝兄弟の夫妻がそこで事務万端を取って下さることが何だか仕合せのように思われてならない。既に日曜学校も百名以上集まり、午前6時半の礼拝に16名集まられるということである。みな希望に満ち満ちていられる。村島兄弟が一生懸命に助けて下さっているのも嬉しい。来年の今頃は私も神戸大阪に帰ってくることと思っているが何だか大阪の煙と戦争がしたい気がして仕方がない。セツルメントはキリストのXとPを組み合わせて記章にし同時に大阪市の印であるみをつくしを表示させている。なんでも四貫島あたりに昔に「みをつくし」が立っていたとかで、吉田兄の考案になったのである。
イエスの友の有志が或いは労働者に珠算を教え、或いは裁縫を教えて下さるそうで誠に嬉しく思うています。
私は今日の昼、大阪天保山から船出して紀州田辺に向ひます。(10・27)
(大正14年11月号「四貫島より」:『全集』46頁~47頁)


      CLMJ通信(「イエスの友会会報」大正14年9月29日)

CLM通信

    賀川豊彦の「身辺雑記」(大正15年3月)より

大阪の四貫島セツルメントは、兄弟吉田源治郎氏の努力に依って、益々盛んになります。今度永い信仰生活を続けて居られる太田又七兄が、ロス・アンゼルスで逝くなられた令息の記念の為に、立派な活版場を一つ、四貫島セツルメントの為に寄付して下さいました。これによって、永年希望していたトラクト伝道が容易に出来るようになりました。太田氏は親切のも植字工まで付けて、寄付して下さいました。そのためにこの後我々の運動が非常な進展を見ることを思います。(大正15年「アンペラ小屋より」:『全集』55頁)(太田氏に関しては、71頁にも賀川は重ねて感謝の意を記している)

難局印刷機寄贈賀川の文章絵と共に

ここに収められている賀川の絵を取り出して置きます。

img015.jpg


       賀川豊彦の「身辺雑記」(大正15年5月)より

私は、入院してから44日目の、5月17日に眼科病院から退院して来ました。(中略)退院してから直ぐに、大阪の吉田源治郎兄弟が、見舞い方々私の原稿の仕事を纏める為に来て下さいました。同兄弟の暖かい、友情と快活な笑いに、私は大いに慰められました。それのみならず、同兄弟は私が昨年の秋、堺と大阪四貫島の労働者達に話した、講演を全部纏めて、一冊の単行本にして下さいました。近々警醒社から、「イエスの福音」という題で、出版をする手筈になっております。警醒社も今度は大いに、勉強してくれて、全日本に、伝道の目的を持って、170頁の本をわずか25銭くらいで配布しようと意気込んで居ります。これは利益を離れて、殿堂の目的を持って、最初から1万冊だけ刷って見る心積もりで居ります。(以下略)」(大正15年6月号「アンペラ小屋にて」:『全集』58頁)(「イエスの福音」は「神による解放」と改題したことが61頁に記されている)


  『神による解放』(警醒社書店、大正15年、58頁~59頁)

賀川の文章信仰とは神から支えられること


     賀川豊彦の「身辺雑記」(大正15年6月)より

(前略)四貫島セツルメントに出版部が出来て、既に印刷工場の設備が出来た事は前号で申し上げておきました。其処から新約パンフレットを出版いたしました。日曜学校大人用の教科書にまことに適当したパンフレットだと思いますからこれも用いて見てください。また看護婦ミッションの礼賛パンフレットの第1号が初めて出来ました。「看護婦崇拝論」というのが第1号ですが、これは私の書いたものです。続々これから、出していく積りです。全国に散っている兄弟達が、看護婦同盟をイエス・キリストの名に由って創って下さるなら、非常に幸です。
近ごろで最も面白い報告は、国産主義で売り出した、私の着ている小倉服が、賀川服で通るようになりましたが、大阪の消費組合共益社は、1ヶ月に6千着近く売り出しています。これは奇跡的です。全く神の恵みだと感謝しているのです。これによって初めて、大阪の消費組合共益社が解散から免れました。今の勢いで進むなら本年のすえには、随分広く行くと思って居ります。(大正15年7月号「松沢村の小屋より」:『全集』61頁)

賀川服広告

       賀川豊彦の「身辺雑記」(大正15年10月)より

(前略)「神による解放」は非常に反響があるので喜んでいます。発行してから2ヶ月の中に8千を売りつくし、新しく5千部を刷ろうとしています。この書物ほど、直接に伝道的の意味において多くの手紙を貰った事はありませぬ。ただ今新しく計画していることは、新約パンフレットとして、17分冊に出しているものを、1冊にまとめてこれを35銭くらいの安い値段で一般社会に提供したいことであります。(以下略)(大正15年10月号「六号雑記」:『全集』68頁)

               *  *       *
 
以上、吉田源治郎が総主事として責任を担った「四貫島セツルメント」の創設の時の関係資料を、可能な限り探して見た。
資料の中にたびたび登場する「間所兼次」については、この連載の第11回から第17回まで、大阪に於ける購買組合共益社の働きを纏めて取り上げているが、「四貫島セツルメント」の活動の背景として、再読頂ければ有り難い。

間所兼次は、共益社の創立の時(大正8年)から専らこの組合のために働き続け、昭和20年11月28日、45歳でその生涯を終えた。

               *       *        *

すでに、源治郎と賀川が帰国して直ぐ「東山荘」で開催された「第3回イエスの友全国大会夏季修養会」について、連載第41回で集会プログラムと大会記録、そして小さな写真を収めたが、大きな記念写真があるので、ここに収めて置く。もちろんここには、賀川、吉田、村島などの顔を確認出来る。 

第3回収容写真


なお、第31回「源治郎留学中の吉田幸」で、長女敬子と長男義亜と共に故郷伊勢で生活した事を短く取り上げ、長男義亜は父の帰国を待たずに夭逝したことにも触れた。紹介が前後してしまったが、今回の最後に2枚の写真を収めて置く。

1枚は、源治郎が米国留学に旅立つ前、1922(大正11)年4月に撮影されたもので、真ん中に長女敬子を抱き、右に幸の母・間所志免(しめ)、左に源治郎の母・ゆき、がいる。

もう1枚は、源治郎は留学中の1923(大正12)年1月に撮影されたもので、真ん中に間所兼次、右に吉田ゆきと長女敬子、左に幸と長男義亜、がいる。(次男恵と三男摂(たすく)はまだこの時誕生していない)

    (2010年8月13日記す。鳥飼慶陽)(2014年7月23日補正)

最後に間所家族写真二枚
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