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KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(51)

51-1シュバイツァー顔
     猿と鹿とを手にしたシュワイチェル博士

    第51回 シュヴァイツァーと吉田源治郎(8)

本連載の第32回から第38回まで7回にわたって「シュヴァイツァーと吉田源治郎」を纏めて取り上げた。その折りに続けておくべきであったが、前回の末尾で触れたように、『雲の柱』の昭和2年12月号に於いて、シュヴァイツァーの賀川豊彦と吉田源治郎に宛てた2通の書簡が訳出されていた。

上の写真は、その中にあるもので、当時の印刷技術の限界とはいえ、「猿と鹿とを手にしたシュワイチェル博士」と説明書きがあっても、猿も鹿もシュヴァイツァーの顔さえも潰れてしまっている。馴染みの帽子姿とサインだけは何とか・・。

ともあれここには、吉田源治郎が「アフリカ沿岸より」とタイトルをつけた二つの書簡のうち、まずははじめに送られてきているもの――「1927年7月27日、アジア丸の船上にてヨーロッパへの途次、アルベルト・シュワイチエル」より、「親しき未知の友・賀川豊彦」への書簡――を、はじめに読んで見たい。

    シュヴァィツァーの賀川豊彦への書簡

51-2賀川への書簡1

51-3賀川への書簡2

       シュヴァイツァーの吉田源治郎への書簡
            1927年8月1日付:抄訳

51-4吉田への書簡1

51-5吉田への書簡2

吉田源治郎とシュヴァイツァーとの間に交わされた書簡は、源治郎の米国留学中から始まり、シュヴァイツァーの著作の翻訳出版に関わる事務的な連絡も含めて相当存在していた筈であるが、残念ながら戦災などあって、写真も含めて全て失われているようである。
 
なお、今回掲載できたシュヴァイツァーの二つの書簡にある来日講演と演奏企画は、残念なことに実現することはなかったようで、賀川は1960年に72歳で、シュヴァイツァーはその5年後の1965年に90歳の生涯を終えるまで、結局一度も彼は日本を訪れる機会をもつことが出来なかったのではないかと思われる。

   シュヴァイツァー著『バッハの生涯』(津川主一訳:白水社、昭和15年)

この連載の「肉眼に見える星の研究」(第21回~30回)のところで触れたこともある津川主一が、1940(昭和15)年にシュヴァイツァー『バッハの生涯』(白水社)を訳出しており、その「邦訳への序文」にも、この「シュヴァイツァー来朝の噂が伝わったが、実現せられずに止んだのは残念なことであった」と記している。

51-6バッハの生涯
 
本書は、シュヴァイツァー30歳のときに初版を出した名著『音楽詩人としてのJ・S・バッハ』の四分の一に当たる伝記部分のみの訳出であるが、邦訳も314頁に及ぶものである。

ところで、津川の「邦訳への序文」を改めて読んでみると、「友人吉田源治郎」に触れた面白い事も書かれているので、ここに紹介して置く。
 
51-7バッハの本文吉田に触れて

津川の右のことばをそのまま読めば、源治郎は、シュヴァイツァーのオルガン独奏をナマで聴き、その批評を「彼のバッハ演奏は云々」と津川に認め、それを津川は「著名なる一批評家の告白」として、これを受け取っていることが分かる。

吉田源治郎は米国留学の時に、シュヴァイツァーの著作に出会って、彼の翻訳作業にも取り掛かり、書簡のやり取りもあり、続いて賀川と共に欧州視察を行うので、その時に「バッハ演奏」を聴く機会を得たのであろうか。

源治郎の日記や手帳はあった筈であるが、今のところ確認が出来ていないので、全てそれらのことは今後の調べを待つ外はない。

源治郎は若き日、オルガンも独唱も並々ならぬ腕の持ち主であったようであるので、源治郎とは「友人」である津川主一の他の著作のなかに、その辺りの物語も残されているかも知れない。

      (2010年8月24日記す。鳥飼慶陽)(2014年7月30日補正)





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