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KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(83)

83-1やへ館
  「ヤへ・シバ館」の看板横は賀川豊彦(「神の国新聞」昭和7年3月9日付)

   第83回 一麦保育園と吉田源治郎(1)

既に「四貫島セツルメントと吉田源治郎」の項に於いて、賀川豊彦が大正15年10月に家族と共に、兵庫県武庫郡瓦木村高木東ノ口に移り住み、翌年(昭和2年)1月には杉山元治郎が隣家に転居して、瓦木村を拠点とした新しい動きが開始されて行ったことは、いくらか詳しく取り上げてきた。

それは、大正14年に米国留学と欧州の視察から帰国して、同年10月より四貫島セツルメントの設立に打ち込む傍ら、時を同じくして吉田源治郎は、賀川や杉山らの結成した「日本農村伝道団」の理事も引き受け、賀川宅に於ける一月にもわたる農民福音学校の企画をはじめ講師のひとりともなって重要な役割を担ってきたこともあり、瓦木村での日本農民福音学校や女子農民福音学校、児童林間学校のことにも、大凡の経過を追ってきた。

さらに、賀川の小説『一粒の麦』が昭和6年に出版されその印税も弾みになり、新たに瓦木村高木字南芝781の土地を購入して、昭和7年正月には日本農民福音学校校舎として「一麦寮」が完成し、源治郎自身も最初から深く関わってきた「イエスの友会」の関西冬期福音学校がここを会場にして開催することが恒例となり、それらに関する経過も毎年の事として詳しく取り出してきた。従って「一麦」という場所と建物は、既に馴染みのものになっているかと思われる。

そこで今回は上の写真に挙げたように、昭和7年3月の「ヤへ・シバ館」が「一麦寮」の東隣に完成し、同年4月1日には、賀川豊彦を園長に、吉田源治郎を主事にして始まったという「一麦保育園」の戦前の歩みを、手短に取り上げて置きたいと思う。

  梅村貞造講演用資料「賀川豊彦と一麦寮」より

梅村貞造氏は、現在も一麦保育園の顧問として活躍され、昨年94回に亘って連載できた「武内勝資料のお宝発見」の時から数多くの助言と手助けを頂いて来た方である。

本年(2010年)5月から始めることになったこの「吉田源治郎・幸の世界」の連載では、吉田摂氏と共に多くの貴重な資料を提供され、不十分な連載にも毎回適切なご注意と暖かい励ましを頂いている方である。

梅村氏は、一麦保育園のみならず、昭和22年3月17日に創立された日本基督教団西宮一麦教会(当時は一麦寮の2階の畳敷部屋で礼拝が行われた)に所属し、保育園と教会の重責を現役として担う人である。

ところで本年5月31日に、梅村氏より標記の講演資料「賀川豊彦と一麦寮」(以下「講演用資料」と略す)のコピーを頂いた。50コマほどのパワーポイントの資料であるが、その中から先ず「賀川が移り住んだ当時の瓦木村」の地図と、現在の一麦保育園・西宮一麦教会の案内図を取り出して置く。

83-2瓦木村

賀川豊彦は『雲の柱』昭和7年2月号の「武蔵野より」の欄で、次のように書いている。

一麦寮の完成に続いて「私の今やってゐることは、来るべき5年間のうちに農村へのバラック教会を二百ばかり建てたいことである。3間に5間のバラック教会をトタンで葺いて三百五十建ててみたい。そんなものを二百欲しい。二百。昼は農村の託児場で、夜はそこで農村学校と教会をやりたい。今その一つを摂津武庫川のほとりに建てている。」(『賀川豊彦全集』第24巻、139頁)

日本農民福音学校の寄宿舎「一麦寮」に付属して建てられた「ヤへ・シバ館」は「賀川氏設計の農村教会の雛形」で「建坪約15坪、坪当たり22円の割で、340円で建てることが出来る。人員は約150名は入れることが出来る。昼は農村託児所に使用し、日曜は礼拝、他の日に祈祷会、毎晩は農民福音学校の講堂として使へる。瓦木村では賀川氏夫人令妹芝八重子氏が寄付されたとて「ヤエシバ館」と命名してある。賀川氏は「全国にまづ約二百のかうした農村教会をほしい」といはれる」というコメントは、今回の冒頭に挙げた写真の下に説明書きされているものである。(なお、同じ写真は「火の柱」第49号(昭和7年3月)にも掲載されている。)

右下の「一麦保育園配置図」は「講演用資料」にある「『一麦寮』が建っていた頃の配置図」である。文字がつぶれて判読できないが、「一麦寮」の方が「保育室」で「保育園舎」とある方には「遊戯室」と書かれており、これがどうも「ヤへ・シバ館」といわれたところのようである。

83-3保育配置図

下も「講演用資料」より

83-4寮の写真
      
   梅村貞造「賀川豊彦と一麦寮<年表>」より
   (2008年9月7日に行われて「賀川豊彦講座」で配布された資料)
梅村氏は、「賀川豊彦献身100年」を記念した「賀川豊彦講座」でも「賀川豊彦と一麦寮」のテーマで講演を行っている。その時配布された標記の「年表」の中から、「一麦発祥以後」から昭和20年までの箇所のみを、講座案内の言葉と共に、以下に取り出して置く。

83-5年表まえの案内文

83-6年表1

83-7年表2

この年表は「雲の柱」「火の柱」「神の国新聞」ほか基本的な資料に当たって仕上げられたもので、1926(大正15)年から2002(平成14)年までの年表である。

なお、改めてこの講座資料を見ると、先に小さく収めた「賀川が当時移り住んだ瓦木村」の鮮明な地図が「一麦発祥当時の地図<昭和8年~11年頃>」と付記されて収められていたので、重複するがこれを次頁に収める。

83-8当時の地図

一麦保育園は数多くの先進的な保育実践をつみ重ねて、多くのところに報告記録が残されている筈であるが、手元に持ち合わせているのは、次の2冊の記念誌だけである。

83-9あゆみと保育の表紙

左の『45周年記念誌』は、創立の翌年(昭和8年)4月に主任として着任し、一麦保育園の中心を担った埴生操の「幼児と自然教育」の実践記録が主に収められ、右の『50年記念誌』は、50年にわたる一麦保育園の卒園生などの寄稿文を編纂したものである。

次の写真は『50年記念誌』の最初に飾られている「最初の園舎(ヤへシバ館)」と説明のある写真である。賀川と杉山の顔が見える。

83-10最初の園舎の前で写真

次に、昭和7年4月「一麦保育園」が賀川豊彦によって創設されてとき主事を担った吉田源治郎が、吉田幸と連名の文章を『50年記念誌』に寄稿しているので、それを読む。

83-11吉田文章1

次の写真は、これも『50年記念誌』に収められている「最初の園舎:園庭での保育風景」である。

83-12園丁の写真

今回の最後に同じ『50年記念誌』の中から、昭和8年第1回卒園生で「50周年実行委員長」を務めた石田幾子と元職員の松田伊勢子の2篇をここに収めさせて頂く。いずれも一麦保育園の創立期の様子が上手く描き出されている作品である。

83-13挨拶文章1

83-14文章つづき

83-15文章のつづき3

83-16文章4

83-17文章5

83-18文章6

83-19文章7

83-20新たな文章1

83-21文章2

83-22文章3

今回はここまでとして、次回も戦前の「一麦保育園」を辿り、戦後に進みたいと思う。
     
     (2010年9月27日記す。鳥飼慶陽)(2014年8月31日補正)


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