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KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(85)

85-1写真

   第85回 戦火を生き戦後を歩み始める(1)

これまで第84回までは、三重県伊勢市で生まれ育った吉田源治郎と幸の成長と出会い、そしてふたりの結婚家庭とそれぞれの働きの一端を、お預かりした諸資料を眺めながら、粗雑な資料紹介のような作業を進めてきた。

今この段階で改めて、吉田夫妻のここまでの歩みを見て、ひとの出会いの不思議さのような事を思い知らされる。特に夫妻にとって、若き日の賀川豊彦とハルとの出会いは、まことにごく自然で、徐々に相互の尊敬と信頼を深め、それぞれの持ち味を存分に発揮していく深い関係と絆を見届けることが出来たように思う。

源治郎の場合は、イエスの友会の結成、間所兼次の活躍する共益社との関係を強めながらの四貫島セツルメントの設立、一麦寮を拠点にした日本農民福音学校やイエスの友の福音学校の積み重ね等の実践的な役柄と共に、賀川の講演を筆書きして作品に仕上げる仕事、『雲の柱』誌や「火の柱」紙その他への翻訳を含む学術論文の執筆、『児童説教』『肉眼で見る星の研究』を皮切りに、シュヴァイツァーの翻訳書など多くの著作の刊行等々、目を見張るばかりであった。

一方の幸の場合も、源治郎の働きと勝るとも劣らず、結婚家庭の大切な子育てと牧師夫人としての役柄を担いつつ、源治郎留学の時から幸の天職である幼児教育の分野で磨きを加え、地道な働きに打ち込んできた姿が、いくらか浮き彫りになったのではないかと思う。そして源治郎・幸夫妻にはそれぞれ、戦後の更なる天来の仕事が待ち受けているのである。

今回冒頭の写真は、昭和48年に纏められた西宮一麦教会の『創立25周年を記念して』(以下『一麦教会25周年』と略す)の巻頭に収められているもので、「教会創立の頃の人々―一麦寮の前で―1946.4.14」と記されている。

既にこれまでの連載の中で、「四貫島セツルメント」並びに「今津二葉幼稚園・今津二葉教会」が戦火に見舞われ、大切なお宝を灰塵に帰したことと、幸い空襲を受けつつも辛うじて残った一麦寮(「一麦保育園」)に、吉田源治郎一家は避難場所を得て、戦後を歩み出したところまでを辿ってきた。

先ずここでは、昨年連載の「武内勝アルバム」に残されていた写真のうち、梅村貞造氏によって「恐らく昭和20年頃の写真」としてチェックを頂いている「一麦保育園」「一麦寮」関連のものを収めて置きたい。武内勝の家族もこの頃、ここで生活を続けていた。

   下の写真は、一麦保育園の卒園式。後に立つ3人の左は埴生操、中央は武内雪、右は荻原文子か久保田清子か。

85-2卒園式

次は、 一麦保育園の入園式の後か 左端・吉田源治郎 その隣に埴生操 その隣に武内雪

85-3母たちの写真

  次の写真は、前列中央・賀川豊彦 その左隣・武内勝 後右2人目・埴生操

85-4賀川・武内らの写真

  下の写真は、埴生操は後列左から3人目 何の時?

85-5そうじ羽生らの写真

次に戦時下、関西学院中学部(旧制)の学生で昭和22年に卒業した吉田摂氏が、2002年に『卒業55周年記念誌:双五会会員の戦中奮闘記』の編集に関わり、そこに寄稿した一文「上が原の思い出」が手元にあるので、それを収める。

85-6吉田の文章1

85-7吉田文章2

85-8吉田文章3

次の文章も、戦時下の空襲体験を綴った小川敬子氏のものである。2003年6月発行の市川聖書研究会誌『つのぶえ』第7号に寄稿した「人間の盾」と題するエッセイである。

85-9人間の盾1

85-10人間の盾2

これまでの連載で度々取り出して来た前掲の小川敬子氏は、昭和12年より昭和26年までのご自身の「略歴」を2007年4月に記している。貴重な記録でもあるので、参考までにここに挙げさせて頂く。

85-11小川履歴

上記の「略歴」を拝見していると、吉田敬子は昭和18年に小川三男牧師と結婚、1年後には夫の従軍、昭和21年5月に夫の復員後、灰塵に帰した四貫島友隣館(大阪四貫島教会)の再建に夫婦して飛び込み、戦後の混乱期の中を昭和25年には、新会堂を建築して昭和26年4月まで、源治郎の働きを受け継いで、若き力を捧げて来られた事が判る。

ところで、「戦時下の賀川豊彦」「敗戦時の賀川豊彦」に関しては、古くは横山春一『賀川豊彦伝』(警醒社、昭和34年)、新しいものでは雨宮栄一『暗い谷間の賀川豊彦』(新教出版社、2006年)やロバート・シルジェン『賀川豊彦―愛と社会正義を追い求めた生涯』(新教出版社、2007年)などを通して、その概観は学ぶ事が出来る。

今回この連載に於いて、吉田源治郎の深く関与して来た『雲の柱』誌や「火の柱」紙を眺めてきたが、両誌紙とも戦時下には「終刊」に追い込まれて仕舞う事態に至ったところまで触れて来た。

そして今、「戦火を生き戦後を歩み始める」この項を綴り始める為に、賀川ミュージアムより復刻された『火の柱』をコピーさせて貰い、初めて「再発刊」された「火の柱」(会報第1号)を読み始めてみた。

「再発刊」された「火の柱」(会報第1号)は、これまでの「活版印刷」と違って手書き(勿論われら世代では馴染みのガリ版)で「昭和20年6月」に発行され、「昭和21年7月」(第17号)までが手書き印刷であった。(第18号が欠けているのでその号まで手書き印刷かも知れない。「ガリ版」では印刷に限りがあり、部数も僅かであったのであろう。

「ガリ版」印刷で「火の柱」の「再発刊」(会報第1号)が出ていた事に、何故か感動を覚えるのであるが、よく見ればこの第1号は「昭和20年6月」、正に「戦火に生きる」中での「イエスの友会会報」であった。大袈裟に言えば、これはお互いに「命綱」の役割を担うものでもあったように思えて来る。

7月号(第2号)では「本年3月以降6月末迄に敵米の野蛮なる盲爆に会ひ、今はその事業所を失った箇所は、東京に於いては本所基督教青年会、大阪に於いては四貫島友隣館、生野聖浄館、神戸に於いてはイエス団戦時託児所、イエス団友愛救済所、長田天隣館、等は全く焦土化されました。」と報じられている。

(ここに記されている「長田天隣館」は神戸大空襲の直接の被害を免れ、神戸イエス団の戦中戦後の重要な拠点となった事は、既に度々触れて来た通りである。情報も混沌としていた中での紙面づくりであったことを伺わせる。)

それで「戦火に生き戦後を歩み始める」この項の最後に、戦時下に再発刊されたこの「火の柱」を、ほんの少し取り出して見たいと思う。

85-12火の柱1号

85-13火の柱つづき

85-14火の柱3

85-15火の柱つづき4

85-16火の柱5

85-17火の柱6

この項はこれで終える積もりでいたが、「再発刊」された「火の柱」は殆ど人の目に止まる機会を持たないので、次回にも少し取り出して置く事にして、今回はここまでとする。「戦火を生き戦後を歩み始める」姿を、その時と場所に於いて刻まれた資料の中に、しっかりといま見届けて置きたいと思う。
      
     (2010年9月30日記す。鳥飼慶陽)(2014年9月2日補正)




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