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KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(86)

86-1パンフ表紙

   第86回 戦火を生き戦後を歩み始める(2)

昭和20年12月に朝日新聞社は「朝日時局叢書」として賀川豊彦の小冊子『新日本の衣食住』初版6万部のものを発行した。時を同じくして時事通信社も「時事叢書」として賀川の小冊子『デモクラシー―民主主義とは何か』を出して、戦後の新しい社会づくりの指針のひとつとして登場させている。

前回、戦時下真っ直中にあって、昭和20年6月「イエスの友会会報:火の柱」の最発刊の事に言及した。東京・本所も大阪・四貫島も、そして神戸・イエス団も米軍の爆撃によって破壊される中で、賀川夫妻の住む東京・松沢が辛うじて直接的な戦災の被害を受けていなかったため、そこを「本部」としてあの「再発刊」が可能となっていた。「本部通信」には、源治郎の救出と一麦寮への避難の消息や間所兼次の悲報も伝えられている。

ここでは、「戦後」となる昭和20年12月号の賀川豊彦の「クリスマス瞑想」と賀川ハルの「本部だより」を収めて置く。

86-2火の柱1

86-3火の柱2

さて、年が明けて昭和21年の「火の柱」1月号の「本部だより」には「関西では新年、西宮市一麦寮に於いて、イエスの友の修養会が、正月2・3両日開催された。交通不便な折柄も、東より西より集い、新日本建設のため祈り、賀川先生の指導を仰ぎ、非常に恵まれた集会で、受洗者13名であった。」と報じられている。

この修養会は、「関西冬期福音(生活)学校」として、毎年正月に一麦寮で開催してきたものであるが、吉田源治郎一家も「一麦寮」で避難生活を継続していた中での開催である。

前回の「小川敬子略歴」にもあるように、四貫島友隣館・天使保育園・大阪四貫島教会の復興には、小川三男・敬子夫妻が当たるのであるが、前掲の『四貫島セツルメント50年のあゆみ』に記されている箇所(23頁~25頁)を、ここに取り出して置く。

86-4四貫島文章1

86-5四貫島文章2

さて吉田源治郎は、度重なる空襲で傷んでいたからだも徐々に癒え、先に取り出した四貫島の復興をはじめ、同じく戦火で焼失した今津二葉教会と幼稚園の再建のために奔走しながら、新たな思いで「伝道の旅」に出向いた記録が、昭和21年3月号の「火の柱」に登場している。次の短い「阿波伝道記」がそれである。

86-7阿波メモ

 「阿波伝道記」といっても日付と会場が記されているだけであるが、この旅は、連載でも時折触れてきた三浦清一牧師(石川啄木の妹・三浦光子の夫としても知られる)との二人行脚である。

よく見ると、「火の柱」の同年6月号には、源治郎の「第3回阿波伝道記」も載っている。
これを読むと、3回のうち2回目の3月は「吉田単独」とあるので、三浦と同行したのは2月の間違いではないかと思われるが、この「第3回阿波伝道記」も、杉山元治郎との行脚で面白いので、ここに収めて置く。

86-8火の柱阿波

86-9火の柱阿波2

これほど体調も回復していた吉田源治郎は、同年7月27日から3日間、御殿場の高根学園で開催された戦後最初の「イエスの友全国大会及び修養会」にも参加し、「夕陽の祈り会」の役目を担っている。

また、翌月8月12日・13日両日、六甲山凌雲荘で開催された関西夏期聖修会でも、吉田源治郎は「農村伝道の研究」を講じている。この時の様子は、この号から活字印刷になった「火の柱」9月号に掲載されているので、右に取り出して置く。

86-10火の柱記事

ところで、この昭和21年には、賀川豊彦は、戦後最初の小説『再建(さいこん)』を、大阪新聞社より出版した。
今回の連載「間所兼次と共益社」のところでも触れたように、賀川は日本の再建の道は、協同組合運動以外にないであろうという確信を抱いて、共益社の活動に献身した間所などを、この小説に登場させて、関係者を再結集を計ろうとして書き上げたものであった。

同じく昭和21年の作品として、コバルト社から<ラッキー文庫>と名づけて小品ふたつ『新生活の道標』と『協同組合の理論と実際』をそれぞれ6月に出し、「東京講演会」が編集発行する「講演録644号」に、次のような「日本復興と精神的基礎」(2篇附・「キリスト教兄弟主義」「世界連邦制度の創造」)を刊行している。

86-11講演表紙

序でに挙げて置けば、昭和21年に刊行されたもう1冊、次の『神よりの福音』(愛育社)がある。これは一部を除いて大半が、戦前に<信仰リーフレット>として広く愛読されていた作品を纏めたものである。『賀川豊彦全集』には入っていないので、6月24日付の「序」だけを、ここに収めて置く。

86-12神よりの福音表紙

86-13序文

吉田源治郎は、昭和20年8月6日、一麦寮に担ぎ込まれて養生・避難生活の中で、8月8日には母・吉田ゆき(享年77歳)を見送り、戦後最初の日曜日より、一麦寮の2階で礼拝を開始している。

こうして昭和22年の春、愈々「西宮一麦教会」の誕生へと進んで行くのである。
今回はここまでとする。

     (2010年10月1日記す。鳥飼慶陽)(2014年9月3日補正)


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