スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(88)

88-1鳴門写真
  徳島鳴門の「富田製薬畜産部の牧舎」(現船本牧舎)
 (鳴門市賀川豊彦記念館常設展示図録『賀川豊彦』より)

   第88回 昭和22年の吉田源治郎

第85回と第86回で「戦火を生き戦後を歩み始める」として「昭和20年と21年」を追い、前回の第87回で「西宮一麦教会と馬見労祷教会の設立」として、吉田源治郎が西宮一麦教会創立20周年記念の行われた昭和42年に、設立当時を語った説教「前進する教会」を取り出し、今回はその後の昭和23年以降に進む予告をしていた。

ところが、改めて「火の柱」を眺めていると、吉田源治郎が昭和22年に「火の柱」に寄稿した作品や色々な活躍の跡が記されているので、今回は標題にあげたように「昭和22年の吉田源治郎」として、記録に留めて置きたいと思う。

(付記:只今一麦保育園顧問梅村貞造氏よりメール便が届き、前回(第87回)の冒頭に収めた、今から43年も前のあの写真に、次のような説明書きを頂いた。「写真の最前列右から、埴生操園長、笠井健一副牧師、吉田源治郎牧師、長谷川英雄氏及び夫人、2列目左端が梅村貞造とその右4人目と5人目の女性の間に顔の見えるのが森彬青年です。」と。森彬青年は、後に西宮一麦教会の牧師に就任し、長期にわたる牧会を続けられた方である。尚、前回掲載した記念礼拝の説教の録音テープは、現在も大切に保存しておられ、「来年(2011年)1月開催予定の、西宮一麦教会と甲子園二葉教会合同の吉田源治郎牧師記念会で、皆さんに聞いて頂ければと思っています。」とも記されていた。)

さて、今回初めに収めた写真は、鳴門市賀川豊彦記念館の『常設展示図録:賀川豊彦』に収められているもので「富田製薬畜産部の牧舎(現船本牧舎)」と説明書きが付いている。

第86回で、吉田源治郎は昭和21年2月と3月、また5月から6月にかけて「阿波伝道」に出掛けていた事を見届けていた。源治郎にとって賀川の故郷・徳島へはそれまでも幾度かは訪ねている筈であるが、この「阿波伝道記」にも、既に一麦寮に於ける農民福音学校で出会い、馴染みの関係にあった船本宇太郎宅での集まりを持った事が記されていた。

前掲の鳴門市賀川豊彦記念館の『図録』には、「阿波農民福音学校」と「船本宇太郎」の記述があるので、切り貼りしてここに収めさせて頂く。

88-2阿波農民福音学校

88-3同じく阿波福音学校

昭和21年12月号の「火の柱」には、戦前から取り組んできた「阿波農民福音学校」を、戦後最初の農民福音学校として、上の企画を立て予告を出している。吉田源治郎も講師のひとりであるが、賀川をはじめ実に豪華な顔ぶれである。

この案内では、昭和22年1月9日より5日間とあるが、「火の柱」2月号に掲載されている下記の船本宇太郎の報告によれば、阿波農民福音学は1週間にも及び、受講生も100名近くにも及ぶ盛会ぶりである。この機会に、船本宇太郎のその寄稿文を、少し文字が小さくなるが、ここに収めて置く。

88-4船本文章

   船本牧舎をモデルにした鳴門市賀川豊彦記念館

88-5鳴門記念館

88-6豊島学校

上記のように、昭和22年2月には「豊島農民福音学校」も開催され、吉田源治郎も同じく講師の一人として出掛けている。

   工場地帯を教区として―四貫島セツルメント覚書―

吉田源治郎は、「火の柱」昭和22年3月号~5月号まで、表題の「覚書」を「未完」のかたちで書き残している。完成稿が纏められているかも知れないが、ここではこの3回分を取り出して置く。今日では使用する事のない表現が含まれているが、其の儘収める。

88-7四貫島文章1

88-8四貫島文章2

88-9四貫島文章3

88-10四貫島文章4

   童心の美しさ―徳太少年のノートから―

本稿は、西宮一麦教会の会員で、毎日新聞の佐藤功二記者が、昭和22年9月21日付の東海毎日新聞「サンデー・トピック」欄に寄稿し、「火の柱」12月号に再録のものである。この中には、吉田源治郎のコメントもある。

88-11童心1

88-12童心2

88-13童心3

この時小学6年生だった高山徳太君は、昭和25年新制中学2年生のときに吉田源治郎より洗礼を受け、母・高山悦と共に西宮一麦教会の会員となり、昭和54年10月に一麦保育園で開かれた西宮一麦教会主催の「吉田源治郎先生:米寿祝賀会」の記念作品『昨日も今日もいつまでも変わる事がない吉田先生』を作製している。

見事な貼り絵作品で、寄せ書きや写真など大切なお宝である。いま手元にお預かりしているので、この作品は是非この連載の「米寿祝賀会」のところで紹介して見たい。

徳太君の母・高山悦は、一麦保育園で働いた後、地元の小学校の教師となり、後に昭和44年には『私の同和教育』(部落問題研究所)という著書を出版し、当時大変話題にもなった。

著書の中で、この頃の事を次のように書き残している。この作品をいまこれを読み返して、あの青春時代の激動の時を想起させられる。そして当時、心に留めることのなかった高山親子の、西宮一麦教会との関わりの深さに驚かされる。

88-14高山1

88-15高山2

88-16高山3

88-17高山4

88-18高山5
(高山悦『私の同和教育』82頁~89頁 詩の部分切り貼りする)

88-19次の日の柱の前に夏季修養会案内

「火の柱」昭和22年11月号        

88-20火の柱22年11月号

    「火の柱」昭和22年12月号

88-21火の柱12月号
      
    「火の柱」昭和22年10月号の巻頭

88-22火の柱タイトル

88-2310月号の巻頭文

88-24つづき吉田・母

上の「サモネット2」も「火の柱」昭和22年10月号より

吉田源治郎の戦後も、一麦寮という場での避難所暮らしの中で、一歩一歩、確かな歩みが始めっていることを思い巡らせることが出来た。
次回は「昭和23年の吉田源治郎」ということになるのであろうか。
    
    (2010年10月4日記す。鳥飼慶陽)(2014年9月5日補正)


スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

keiyousan

Author:keiyousan
このブログのほかに同時進行のブログもうまれ全体を検索できる「鳥飼慶陽著作ブログ公開リスト」http://d.hatena.ne.jp/keiyousan+toritori/ も作ってみました。ひとり遊びデス。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。