スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(104)

1-写真
  昭和34年3月23日 高松・ルカ病院前 緊急入院養生後東京へ戻る日

    第104回 賀川豊彦の召天と吉田源治郎

賀川豊彦がその生涯を終えたのは昭和35(1960)年4月23日夜のことであった。前回はこの年までを見たが、「賀川豊彦の召天と吉田源治郎」の事に関しては今回取り出して置きたい。

2-賀川伝表紙

ところで、右の『百三人の賀川伝』は、賀川没後4ヶ月足らずして、8月にキリスト新聞社より出版された。上下2分冊のものと、分冊ではない箱入り上製本とが、ほぼ同時に出ている。

武藤富男の序によれば、「みんなで賀川伝を書こうということになり、原稿を募集したのは、昭和34年1月、賀川先生が高松にあって療養中の際であった」という。賀川もこの企画を知って、出版を心待ちにしていたが、遂に賀川の生前には間に合わなかった。

書名の如く、百三人の広範囲にわたる人々の寄稿文で、読み物としても面白い。

ここに寄稿した吉田源治郎の文章「タンカを切る賀川」は、これまで部分的に関連する場所で取り出してきたが、以下に全文を収めて置く。(上製本の250頁~252頁)

3-タンカ1

4-タンカ2

5-タンカ3

次の著書『神はわが牧者―賀川豊彦の生涯と其の事業』も、先の『百三人の賀川伝』に続いて、賀川没後7ヶ月程で仕上げられた追悼集である。前書は103人の寄稿者であるが、ここにも70人余りの人々が寄稿している。

6-神は表紙

奥付によれば、昭和35年12月8日、イエスの友大阪支部の発行で、編集者は田中芳三、編集協力者に西阪保治・吉田源治郎・金田弘義の3人が上がっている。多くの写真が入る128頁の上製本である。

今回冒頭の写真は、本書から取り出したもので、昭和34年3月23日、高松・ルカ病院前で撮られている。緊急入院で養生した後、東京・松沢の自宅へ戻る日の賀川豊彦である。2列目右端はルカ病院の小川院長夫妻。

前回、昭和34年1月の一麦保育園に於ける冬期福音学校で講演する賀川豊彦の写真を掲載したが、次の写真はその福音学校の最終日(1月4日)、賀川が最後の講演を終えた時に写したものであるという。賀川の右が桃谷勘三郎、後列左より山口政雄・涌井安太郎・大川拡・田中芳三。

7-福音学校最終日の写真

下の写真は、本書の編集に当たった4人で、左から西坂保治・金田弘義・田中芳三・吉田源治郎。

8-編集に当った人々の写真

次頁に、西阪・吉田・金田連名の「まえがき」を収める。

9-まえがき1

先ず、吉田源治郎の二つの寄稿文を取り出して置く。

10-吉田文章1

11-吉田文章2

この追悼集の最初に、大宅壮一の「噫々 賀川豊彦先生」がある。この短い一文は広く引用されてきた有名なものであるが、ここにその原文を収めて置く。
 
12-大宅の文章1

ここで、本書に収められている写真の中で、吉田源治郎が写る写真を2枚、入れて置く。1枚は大正14年のもの(上)、もう1枚は昭和30年のもの(下)である。

13-写真二枚上

大正14年8月 六甲山 イエスの友大阪・京都連合研修会 前列左2人目・吉田源治郎

14-写真二枚下イエス団
  昭和30年 イエス団職員会 前列左より吉田・三浦・賀川・武内・本多

賀川の葬儀の記録の箇所にば、「4月26日午後1時より、松沢教会において、深田種嗣牧師司式により、密葬の式が行われ、今日まで賀川先生の影のようにつき添うて、よく協力された吉田源治郎牧師が式辞を述べた。」と記されている。

今回の最後に、源治郎の畏友・西阪保治と金田弘義が、本書に寄せた文章を収める。

15-最後に文章1

16-文章2

17-文章3

18-文章4

19-文章5

以上、昭和35(1960)年までを見たことにして、次に進む。
       
      (2010年10月23日記す。鳥飼慶陽)(2014年9月21日補正)


スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

keiyousan

Author:keiyousan
このブログのほかに同時進行のブログもうまれ全体を検索できる「鳥飼慶陽著作ブログ公開リスト」http://d.hatena.ne.jp/keiyousan+toritori/ も作ってみました。ひとり遊びデス。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。